敬愛なる父親を偲ぶ/黄澤南-(136)

私の故郷は高雄市の発祥地旗後町(旗津区)と湊町(浜線)です。これは日本統治時代の町の名で、高雄の港湾の両岸にあります。旗後町は主に造船所が多いので、造船材料・造船工具の商売を、湊町は漁船が集結して、船舶用品から漁船の漁具に、また大型貨物汽船の貨物荷上げ用ワイヤロープ・ナイロンスリングの吊り上げ道具、救命胴衣の商売をしていました。屋号も新和興と名付け親爺の代からの老舗で、漁船の出入りが多いので商売は繁盛しておりました。

私の父はとても厳格で慈悲深い人で、自慢ではないですが、誰からも崇められる地方の名士でした。この地方のお金持ち達が武力で解決するような悲しい土地売買の争い、また家族の財産争いから信用組合(現在は銀行)の理事長の争い等、数多くの揉め事を解決する時には、いつも私の父が呼び出され仲裁を頼まれ、これらの難題をいつも円満に解決していました。その後自腹で双方の人達を料亭に招待して仲直りさせ、皆から敬われました。私の父は気前の良い人で友人との付合いも多く、いつもお客様が訪れ睦まじくお喋りして、昼食の時間になると母が数人の召使に命じて、沢山ご馳走を作りお客様を接待するので、誰からも親しまれました。
また友人や貧しい人が度々お金を借りに来ましたが、これらの借金は戻らないと知りながらも、惜しまずに施しました。私の母親、祖母も皆慈悲深く心優しい人で、いつも善と徳を積み、隣近所の人からも慕われました。

台湾語で曰く「父慈子孝、敦親睦隣」「積善之家慶有餘」この様に祖先が善と徳を積んで来たお陰で、私達子孫は皆幸福に暮して参りました。

私の慈しみ深い母は胃癌に罹り、当時(五十年前)の医術が未だ発達していない時代、手術した時はもう癌の末期と分り、僅か三ヶ月後には治療の甲斐も無く六十四歳でこの世を去りました。その翌年には、特に病も無かった祖母が、深夜十二時頃突然心臓が止り、九十三歳の高齢で召されました。父はこのショックで悲痛の余り中風に罹り、後に脳溢血で六十六歳の若さでこの世を去りました。

この二年の間に三名もの大切な家族を喪い、隣近所の人や友人達もお悔やみに来て、共に涙を流し悼んで下さいましたが、この様に立派で慈悲深い両親と祖母を相次いで喪った事は、私達兄弟姉妹にとって一番辛くて悲しい出来事として、今でも鮮明に思い出されます。 
    
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