新生南路と敦化南路時代の玉蘭荘/大川記代子 元総幹事
editer: 玉蘭莊 date: 2025-05-12 17:43
[堀田久子先生惜しまれて帰国される]
一九九二年六月二十九日、堀田久子先生は玉蘭荘創設からさらに遡ること、一九八〇年からの十二年間に及ぶ台湾での働きを終えて帰国の途につかれました。誰もが別れを惜しみ三十名ほどの人達が空港まで見送りました。私はその前の二ヵ月間、堀田先生のもと研修を受け玉蘭荘の仕事を引き継ぎました。
堀田先生は、早い時期に献堂献金を募ることを始められ、先生自らも、また賛同者各自が六万元を目標にしていくものでした。そうした玉蘭荘の将来構想をきちんとした理事会組織に委ねたいと願って玉蘭荘を退かれる前に、許石枝さんに理事長就任を依頼され、許さんはそれを承諾されました。その後組織された理事会、運営委員会が始動しました。運営委員長の鄭秀珠さんには私はどんなに助けられたことかわかりません。その後献金だけで玉蘭荘を運営していくこの神の稀有な事業は、今日に至る迄発展を続けました。他に類をみないこの歩みは台湾人のキリスト信仰と愛による底力を示して余りあるものです。
[働き人たち]
ボランティアさん達は、すでに会計の陳瑞煕さん、スープ作りや細かなことに及んで黄玉貞さんや廖恩昭さん、連碧玉さんなどの活動は輝いていました。林良信さんは堀田先生の片腕として、邱思忠医師は、別室で集う人達の診察にあたっていました。馬場十寸穂さんは一番最初からの明るく力強い日常ボランティアのリーダーでしたが、すでに別の場所で日語班として十名位の婦人たちに週一回、日本語を教えておられました。
新生南路から敦化南路に引越した時は、古いビルで、またオフィス仕様で改築する所は山ほどありました。許理事長は、作業服を着て鋸やペンキの刷毛をもち日夜活動の場を仕上げて行かれました。張明徳さんはさらに引き続いてどこかが故障したり様々な建物の問題が生じる度に絶えず玉蘭荘に出入りして、困りごとを一つ一つ解決してくださいました。私は台湾で初めて出会う徹底したこのような奉仕の姿に深い感動をもって感謝しました。
[玉蘭荘に集う人達の思い出]
劉菊野さんは青田街の隣どうしに住む馬千鶴子さんと毎水曜日にやって来て午前中いっぱいかけて、大きな模造紙に毛筆で歌詞を書いていく活動をしました。馬さんは段々と書いていく行がわからなくなり、その内劉さんがそばで一文字一文字を指で示していくようになりました。歌詞集がととのうまでは、このように当初は一曲一曲を書いてもらってはそれを掲げ皆が見て、朝の歌の時間を楽しんだものでした。どんなにか助けられました。
蔡憶椿さんは、聖書と祈りの会に出ておられた物静かな人でした。私が玉蘭荘に参加してみませんかと誘いましたら、人前に出るのがあまり好きでなかったのですが、思い切って出るようになりました。彼女は語ります「玉蘭荘に来てから私の人生は一変しました。無口な私が皆さんと語り、多くの友達が出来、手工芸で習って出来上がった作品を見て、胸が躍る位に嬉しかった。そして人に教えるようにもなったのです」と。彼女は常に控えめに生きて来ましたが、高齢期になってからとても楽しく前向きな人生に変りました。
私が高齢台湾婦人にしばしば感じていたのは、彼女たちは戦争に続き、政情の不安定、男性優位社会の時代の影響もあってか、常にうつむきに視線を落として生きて来た人生だった方々が多い印象がありました。中には「『女は引っ込んでいろ』と言われ続けて、私はずっと消極的に生きて来ました」と告白した人にも出会いました。またそれぞれの方が悲しみや苦しみを抱えていて、しかも支える人少なく一人で頑張ってきた人生において「〞背もたれのない椅子〟にしか腰かけたことがない」、とでも言える人が少なくありませんでした。私の夜の時間帯は、必然、長電話傾聴タイムとなっていました
呂春燕さんは一九九四年度版の皆さんに手渡した「今年の私の五大ニュース」のメモに四つ書き込みました。①ピアノが片言くらい弾けるようになってうれしかった ②編み物を玉蘭荘で人に教える度胸が出来た ③図書係を引き受けたけどやれるかしら ④クリスマス会でみんなの前で独唱したけど緊張して心臓が飛び出しそうだった--この年に彼女も玉蘭荘を通して思い切って挑戦したことがあって、大きく飛躍したことが伝わってきました。
袁呂敏さんは、基礎疾患の為に片方の下腿義足になって何年も経っていました。ご本人曰く「出不精で貝殻に閉じこもっていた私」、の人でした。その彼女がなんと第一回訪問ケア・ボランティア養成講座を受講しました。タクシーを利用して毎週二単位ずつ二ヵ月間、全十七単位、無欠席で履修しました。彼女の喜びようは大変なものでした。卒業しましたが、袁さんは他の姉妹たちと同じように家庭訪問には出かけられません。彼女は祈っていました。そして私ですら驚くような方法でボランティア活動を始めたのです。それは彼女の自室でできる、しかし広く、遠くまで多くの人々の所に出かけられる活動でした。
彼女はほぼ毎日テーブルの前に座り、目の前のテープレコーダーに吹き込んでいきます。まず「〇〇さ~ん」と呼びかけそして体の具合はいいですか、もう風邪は恢復しましたか、と問いかけます。次に、こんな楽しいことがありましたよ、と自分の知らせたい近況を話します。そしてお相手によって、讃美歌や懐かしの歌のプレゼント、暗唱聖句を吹き込みます。そのはたらきは何年も続き、何百巻となく制作されました。袁さんの美しい発音の声で、愛の問安テープを喜んで受け取った人は夥しくあったことでしょう。
玉蘭荘を通して、集い合う人達が互いに有形無形の賜物を与えあい、受けあうことで色々な奇跡がうまれ、私もその交わりの恵みに与り続けてきたことに深い深い感謝を捧げます。
(参考文献:「玉蘭荘の花びら」一九九六年六月刊、第一回訪問ケア・ボランティア養成講座記録集)
一九九二年六月二十九日、堀田久子先生は玉蘭荘創設からさらに遡ること、一九八〇年からの十二年間に及ぶ台湾での働きを終えて帰国の途につかれました。誰もが別れを惜しみ三十名ほどの人達が空港まで見送りました。私はその前の二ヵ月間、堀田先生のもと研修を受け玉蘭荘の仕事を引き継ぎました。
堀田先生は、早い時期に献堂献金を募ることを始められ、先生自らも、また賛同者各自が六万元を目標にしていくものでした。そうした玉蘭荘の将来構想をきちんとした理事会組織に委ねたいと願って玉蘭荘を退かれる前に、許石枝さんに理事長就任を依頼され、許さんはそれを承諾されました。その後組織された理事会、運営委員会が始動しました。運営委員長の鄭秀珠さんには私はどんなに助けられたことかわかりません。その後献金だけで玉蘭荘を運営していくこの神の稀有な事業は、今日に至る迄発展を続けました。他に類をみないこの歩みは台湾人のキリスト信仰と愛による底力を示して余りあるものです。
[働き人たち]
ボランティアさん達は、すでに会計の陳瑞煕さん、スープ作りや細かなことに及んで黄玉貞さんや廖恩昭さん、連碧玉さんなどの活動は輝いていました。林良信さんは堀田先生の片腕として、邱思忠医師は、別室で集う人達の診察にあたっていました。馬場十寸穂さんは一番最初からの明るく力強い日常ボランティアのリーダーでしたが、すでに別の場所で日語班として十名位の婦人たちに週一回、日本語を教えておられました。
新生南路から敦化南路に引越した時は、古いビルで、またオフィス仕様で改築する所は山ほどありました。許理事長は、作業服を着て鋸やペンキの刷毛をもち日夜活動の場を仕上げて行かれました。張明徳さんはさらに引き続いてどこかが故障したり様々な建物の問題が生じる度に絶えず玉蘭荘に出入りして、困りごとを一つ一つ解決してくださいました。私は台湾で初めて出会う徹底したこのような奉仕の姿に深い感動をもって感謝しました。
[玉蘭荘に集う人達の思い出]
劉菊野さんは青田街の隣どうしに住む馬千鶴子さんと毎水曜日にやって来て午前中いっぱいかけて、大きな模造紙に毛筆で歌詞を書いていく活動をしました。馬さんは段々と書いていく行がわからなくなり、その内劉さんがそばで一文字一文字を指で示していくようになりました。歌詞集がととのうまでは、このように当初は一曲一曲を書いてもらってはそれを掲げ皆が見て、朝の歌の時間を楽しんだものでした。どんなにか助けられました。
蔡憶椿さんは、聖書と祈りの会に出ておられた物静かな人でした。私が玉蘭荘に参加してみませんかと誘いましたら、人前に出るのがあまり好きでなかったのですが、思い切って出るようになりました。彼女は語ります「玉蘭荘に来てから私の人生は一変しました。無口な私が皆さんと語り、多くの友達が出来、手工芸で習って出来上がった作品を見て、胸が躍る位に嬉しかった。そして人に教えるようにもなったのです」と。彼女は常に控えめに生きて来ましたが、高齢期になってからとても楽しく前向きな人生に変りました。
私が高齢台湾婦人にしばしば感じていたのは、彼女たちは戦争に続き、政情の不安定、男性優位社会の時代の影響もあってか、常にうつむきに視線を落として生きて来た人生だった方々が多い印象がありました。中には「『女は引っ込んでいろ』と言われ続けて、私はずっと消極的に生きて来ました」と告白した人にも出会いました。またそれぞれの方が悲しみや苦しみを抱えていて、しかも支える人少なく一人で頑張ってきた人生において「〞背もたれのない椅子〟にしか腰かけたことがない」、とでも言える人が少なくありませんでした。私の夜の時間帯は、必然、長電話傾聴タイムとなっていました
呂春燕さんは一九九四年度版の皆さんに手渡した「今年の私の五大ニュース」のメモに四つ書き込みました。①ピアノが片言くらい弾けるようになってうれしかった ②編み物を玉蘭荘で人に教える度胸が出来た ③図書係を引き受けたけどやれるかしら ④クリスマス会でみんなの前で独唱したけど緊張して心臓が飛び出しそうだった--この年に彼女も玉蘭荘を通して思い切って挑戦したことがあって、大きく飛躍したことが伝わってきました。
袁呂敏さんは、基礎疾患の為に片方の下腿義足になって何年も経っていました。ご本人曰く「出不精で貝殻に閉じこもっていた私」、の人でした。その彼女がなんと第一回訪問ケア・ボランティア養成講座を受講しました。タクシーを利用して毎週二単位ずつ二ヵ月間、全十七単位、無欠席で履修しました。彼女の喜びようは大変なものでした。卒業しましたが、袁さんは他の姉妹たちと同じように家庭訪問には出かけられません。彼女は祈っていました。そして私ですら驚くような方法でボランティア活動を始めたのです。それは彼女の自室でできる、しかし広く、遠くまで多くの人々の所に出かけられる活動でした。
彼女はほぼ毎日テーブルの前に座り、目の前のテープレコーダーに吹き込んでいきます。まず「〇〇さ~ん」と呼びかけそして体の具合はいいですか、もう風邪は恢復しましたか、と問いかけます。次に、こんな楽しいことがありましたよ、と自分の知らせたい近況を話します。そしてお相手によって、讃美歌や懐かしの歌のプレゼント、暗唱聖句を吹き込みます。そのはたらきは何年も続き、何百巻となく制作されました。袁さんの美しい発音の声で、愛の問安テープを喜んで受け取った人は夥しくあったことでしょう。
玉蘭荘を通して、集い合う人達が互いに有形無形の賜物を与えあい、受けあうことで色々な奇跡がうまれ、私もその交わりの恵みに与り続けてきたことに深い深い感謝を捧げます。
(参考文献:「玉蘭荘の花びら」一九九六年六月刊、第一回訪問ケア・ボランティア養成講座記録集)
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