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私の故郷は高雄市の発祥地旗後町(旗津区)と湊町(浜線)です。これは日本統治時代の町の名で、高雄の港湾の両岸にあります。旗後町は主に造船所が多いので、造船材料・造船工具の商売を、湊町は漁船が集結して、船舶用品から漁船の漁具に、また大型貨物汽船の貨物荷上げ用ワイヤロープ・ナイロンスリングの吊り上げ道具、救命胴衣の商売をしていました。屋号も新和興と名付け親爺の代からの老舗で、漁船の出入りが多いので商売は繁盛しておりました。

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私の父の思い出二つ/余甚足-(136)

五月の母の日に「玉蘭荘だより」に母の事を書きましたが、父の日にも是非父の事をも書かなければ申し訳ないので、再び筆をとりました。

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一日は千日に優る。(詩編 八十四編 五節・十一節)
いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら 
まして、あなたを賛美することができるなら。(詩編八十四:五)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。
主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。
(詩編八十四:十一)

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七夕の短冊より

*皆様お元気でがんばりましょう!

*玉蘭荘は私にとって温暖な社会団体

*一、一家の健康及び幸福を祈ります。

 二、孫達の学業が順調に進む様に!

*脊椎でやっと癒にし七夕よ

*天の神様ありがとう。おかげで今年九十歳になりました。

玉蘭荘の皆様も元気で!

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九月から玉蘭荘でボランティアをしている私は、これを書いている今、まだ台湾に来て一年も経過していません。そんな私が、台湾に来た頃の驚きや当時の想いを、記憶を辿りながら書いてみたいと思います。

 私が台湾に来たのは昨年の六月の半ばでした。ですから、三月十一日の東日本大震災の日はまだ日本にいました。ちょうど地震が発生した瞬間は仕事で外出しており、横浜駅で電車に乗ろうと地下へ潜るエスカレータに乗っているところでした。エスカレータがうねうねと左右に大きく揺れ、のんきな私は「今日は体調悪いな、めまいがする」と思ったのを覚えています。しかしそれが地震であると気づくまで時間はかかりませんでした。その後は、駅のパニック、徒歩での帰社、電話も通じず情報がない中での会社での一泊を経て、自宅で全てを知ります。

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何年も前に、私は早めに私と夫の亡くなった後の処置をはっきりと汪さん(私より十幾つも若い友人)に託し、これより枕を高くして、「万無一失」(失敗のない様に万全を期す)と思っていたところ、豈図らんや、世の中は儘ならぬもので、或る日急に一本の電話が入り、汪さんがバドミントンの試合中心臓の発作を起こし、数分で亡くなったとのこと。この突然のバッドニュースは晴天の霹靂の如く。私達は最愛の親友を失い、深い悲しみに包まれて終ったのだ。

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春のピクニック/陳旭星-(135)


二〇一二年四月二十五日(水)午前九時、我々玉蘭荘会員は一台の観光バスに乗り込み、一路、北投にある森永製菓の工場へ向けて出発しました。参加者は、今井総幹事、美菁幹事、ボランティアさんを含め、総勢四十名でした。

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台北東海ロータリークラブと玉蘭荘とのおつきあいは、二〇〇〇年の第六代代表溫林翠晶の時代から始まり、今年で十三年目になります。歴代の諸先輩方の支持のもと、私達台北東海ロータリークラブの活動は今年で十八年目を迎えますが、今後とも玉蘭荘への支援を続け、この日台の絆を保ってゆきたいと思っております。

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