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カレーにラーメン、お寿司にとんかつ!

えっ、何のこと?(笑)
今、台北の街を歩けばあちこちに日本のレストランがあり、おいしいコーヒーショップもあります。

スーパーマーケットに行けば日本の食材、調味料も豊富で私たち日本人が生活に困ることは何一つないと言っていいほど、現在の台湾は豊かで住みやすい国です。

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私の玉蘭荘歴は、そのまま台湾在住歴(二十二年)、気が付けばかなりの古参メンバーです。初めて玉蘭荘を訪れたのは一九九八年の七月、同じ学校の友人がどこからか話を聞きつけて、一緒に行ってみないかと誘われたのがきっかけでした。当時の私はまだ学生で、独身で、台湾に二度目の留学に来て二か月目でした。

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「百聞は一見に如かず」という諺がありますが、この言葉の出典は「漢書」で、充國が「百回聞くよりも一度見る方が確かです。兵略は現地から遠く離れていては計画を立てにくいので、私が直ちに金城に馳せ、その実際を地図に描いて方策を申し上げたいと思いますが、お許しいただけませんか」と言ったというところからきています。確かに目で見なければ、確認できないことも、正しい判断ができないこともあります。しかし、見てもわからないこともたくさんあり、むしろ見えないところに大切なことが存在しているのも事実でしょう。金子みすずの「星とタンポポ」の詩に、こんなのがあります。

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美しい場所 玉蘭荘/書道講師 沈富強

今年は旧正月を過ぎた頃から、テレビはどの局でも武漢肺炎(新型コロナウイルス)のニュースばかり、その上マスク不足、アルコール不足、はたまたクルーズ船の集団感染...そんな中で私の心に思い浮かんだ聖書のメッセージがあります。

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「お義父さん、お義母さん、お元気ですか?」

私が台湾へ来て早いものでもう二十年近くの年月が経とうとしています。
二〇〇一年秋に語学留学生として台湾を訪れ、二〇〇二年に台湾人の主人と結婚しました。結婚当時の私は中国語もあまり話すことができず、慣れない異国での生活に楽しさもありましたが、行き詰まり、悩むことも多かったように思います。
そんな時、折に触れて私を助けてくれたのが、主人の父でした。義理の父は、一九二九年生まれの日本語教育を受けた世代で、日本語がとても堪能でした。

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使徒言行録二十章三十五節

知らない人を助ける(Helping A Strenger Ranking)ランキングで、日本は百四十四ヵ国中百四十二位で、寄付のランキング(World Giving Index Ranking)でも、百十四位でした。ちなみに「人を助ける」で第一位は、リビアで人口の八十三%が参与していて、イラク、クエートと続いています。寄付については、第一位はミャンマーで人口の八十八%が捧げています。次にアメリカ、オーストラリアと続きます。東日本大震災のとき台湾の人たちは、一位のアメリカとほぼ同額の二百億円以上もの義援金を集めたことはよく知られているとおりですが、大卒の収入が日本人の三分の一にもならない人たちからの義援金だったとはあまり知られていないでしょう。なぜ、台湾人は二百億円以上もの義援金を送ってくれたのでしょうか?

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一九四五年三月、日本統治下の台湾が米軍の空爆を浴びている最中に、私は疎開先(台湾、台南県)で、生まれました。父添水は二十四歳の時に無教会の信仰書に接して以来、生涯信仰を全うしました。母赤羽千代は明治四十二年(西暦一九〇九年)長野県生まれ、救世軍で入信、奉天での救世軍の婦人伝道を目的とした教習所での和裁教師として満州へ赴任、昭和十六年父との縁談で東京へ戻りましたが、母方の親戚は父の健康不振を理由に多数が反対。母は徹夜の祈りの内にて、病身の父に仕える事を自分の使命と自覚し、翌年無教会の政池仁先生の司式によって先生の杉並天沼の御自宅で、結婚式を挙げました。昭和十八年に父と渡台、当時日台航路は既に米軍の潜水艦に脅かされており、両親より一便遅れて帰台された郭維租先生が乗船した『高千穂丸』は基隆の沖で撃沈されました。一九四五年八月に終戦、十月に中国本土からの軍隊が台湾を接収、翌々年の一九四七年に『二二八事件』が勃発、以来台湾は苦難の五十年を歩んで来ました。

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言われるままに迎えに来た車の窓から扇子を投げ、言われるままに夫となる人の実家玄関で七輪を跨ぎ、言われるままに赤い仏壇に向かって何度もお辞儀をし、言われるままに義両親の前で湯圓を食べた...。あの結婚式の日から、あっという間に十四年が経とうとしている。

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