「玉蘭莊のシルバー族」の完成に際し 張明徳/125号
editer: 玉蘭莊 date: 2010-04-15 22:34
玉蘭莊の創立二十周年を慶祝するに当たり、長年思い巡らせておりました「玉蘭莊のシルバー族」を上梓致しましたので、この場をお借りして紹介させていただきます。尚、これにつきましては台湾を始め、日本にて販売させていただき、収益は全て玉蘭莊に寄付させて頂きたいと考えています。何卒ご協力くださいますようお願い申し上げます。価格は台幣三百元、(本円千円、送料(船便)込み)と致します。時代を共に生き抜いてきた高齢の方々や、台湾と日本との関係の歴史を余り知らされていない若い方達へのプレゼントに最適と自負いたしております。五篇からなる内容を簡単にご紹介いたします。
一:玉蘭莊の会員第1号 ~ 野田敦子さん
彼女は所謂「湾生」、つまり台湾生まれの日本人である。祖父は德川幕府末期の某藩の家老に任じられた。時代が変わり父は時計修理を学んで,台北に移り「野田時鐘行」を經營した。敦子さんは台北に生まれ、一高女を畢業した後、日本商社、廈門日本軍部、台灣總督府でタイピストを勤めた。戦後は日本留学の中國人と結婚、三男一女が次々に生まれたものの、夫は出張中に車事故で亡くなり、野田さんが一家の大黒柱となった。
義父母が次々に世を去った後、日本友人から結婚祝いにもらった屋敷は上司に取られ、その後住んだ古い宿舍は豪雨で倒壊した。末子が大学就学中に鬱病で急死、嫁いで子供まで生んだ独り娘がトラックにはねられて即死、敦子さんは中風になり入院した。不幸を重ねて老後を迎えた彼女は堀田久子宣教師の世話で第一号会員として「玉蘭莊」で老後を過ごした。
二:苦悶の人生 ~ 羅梅妹さん
彼女は貧困家庭に生まれ、父母と共に苦難多き幼年時代を過ごした。
高等科を卒業後に逓信部の試験に合格,電信局の交換手となった。結婚後に夫が死亡、再婚後に二男三女が生まれた。継夫の死後に女児の養育の為に家を売ることにしたが、悪い業者に騙され高利貸から借金するに至り、名義の問題で法院に訴えられ、その家を競売にかけられた。濟南教會の許長老の好意で彼の家に暫時住み、後にオーストラリアへ移住して夫亡き長女の家事を助け孫娘の世話をした。そのような状況の中、夜は大学で日語を学び、修士号を取得。その後台湾に戻り、交通事故で植物人になった親友を助け、玉蘭莊の訪問ケア組に参加した。梅妹さんは苦しい環境で子女を育て、それぞれに高等教育を受けさせた。彼女は学に勤しみ、熱心なクリスチャンで、植物人間になった友人に報いる友情は今時の女性の鑑である。
三:戦乱逃避行 ~ 袁呂敏さん
太平洋戰爭末期に呂敏姉妹(日本人)は日本軍官の父と満州に渡った。間もなく父は軍の命令で東京に戻された。ロシア軍は満州に攻め入り、彼女は日本難民と戦乱を避けるに逃亡を続けた、途中に中国空軍の一少尉の世話に因って夫婦の縁を結んだ。男の子を産んで三日目、幌なしの列車に乗って逃亡の旅を続けた。
その後も国共内戦が続く。呂敏さんは夫の故郷へ逃難を続けた。飛行機、船、汽車に乗り、時には歩行、九死に一生の逃避行を続けて夫の故郷にたどり、長女を産んだ。夫と再会して間もなく、呂敏さんは長男を義父母にあずける為に田舎に戻った間に夫の部隊は出港した。
呂敏さん母子(長女)は船を待ち続け、やっと台湾に着いて夫と再会、部隊にしたがって転々と居を移した。後にはぐれた父と妹をさがし、父を台湾に迎えて孝行の償いをした。父の死後に呂敏さんは里に帰り、妹とも再会した。不在中に夫が新店に家を買った。一家は引越して間もなく夫が急死、後に大陸の祖父母に預けた長男と四十五年ぶりに広東で再会。呂敏さんの戦乱逃避行はNHK連続ドラマ「大地の子」に匹敵する、読者の涙を誘う物語である。
四:報恩記 ~ 許石枝長老(前理事長)
貧家に育てられた許少年はある日本婦人西川さんに激励されて、奮發努力して夜間商業学校の入学試験に合格した。且つ台灣總督府企劃部に紹介されて苦学を始めた、日本警察に協定的に日本海軍を志願させられた彼は、西川さんの優しい訪問を受けて厳しい訓練に耐えることができた。戦後復職した彼に西川さんははるばる高雄から衣類を背負って来てくれた。
戦後連絡が途切れた恩人の行方捜しにNHKの放送によって連絡でき、戦後二十年後に西川さんを台湾に迎えて恩に報いた。
許氏が戦後に苦学を続けていた時、傳染病で倒れ一日本教師に助けられて病院へ送られた。戦後行方を探したが、帰らぬ人となられていた先生の墓参りして恩に報いた。
五:戦前戦後的台湾教育
戦前の日本教育は明治天皇の教育勅語に基づく。教師は愛を以って学生を教えたので、社会秩序は守られ、人々は老人を敬い、幼い者を助け、人の恩を知る。その反面軍国主義が培われ、日本の亡国を招いた。戦後国民党政府が來台、学校教育は進学準備に偏り、徳育を軽んじた。且つ国策によって反共教育が実施され、社会秩序が乱れ、人々は自己主義になり,拜金主義の風紀を醸した。筆者は戦前、戦後の児童教育に携わった経験に基づいて、赤裸々に教育の優劣を挙げた。本文は日本のある出版社から原稿を求められて、立正月刊に搭載され、読者の好評を得た。
★玉蘭莊について
台北市松年福祉會(玉蘭莊)はシルバー族の日本語活動センターで、会員の平均年齢は八十歳に達し、高齢化社会の雛形とも言える。会員の教育水準は至って高い。戦前、戦後、台湾人に嫁いだ日本婦人、戦後に満州、中国大陸から避難して来た日本人。台湾に生まれ、育ち、教育を受け、結婚した「湾生」と呼ばれる元日本人、日治時代に日本教育を受け、日本語に親しみを覚えて参加する
台湾のシルバー族たちは、皆睦ましく楽しい余生を玉蘭莊で過ごしている。
日本教育を受けた台湾のシルバー族には、教員、銀行員、公務員、其他の職場からリタイヤした老人達もいる;子女が結婚して、寂しい毎日を送ってる家庭婦女も参加している。
皆意義ある楽しい晚年を求めて、玉蘭莊に参加している。此処の活動スケジュールはバラエティー豊かで、老人に適したプログラムを組んでいる。正しい信仰は老人に欠くべからざるもので、宣教の経験豊かな牧師を招聘して聖書に基ついて主の教えを学び、聖歌を歌う、その他の歌の時間には、なつかしい童歌、抒情曲、カラオケがある。歌以外にも健康講座、時事分析、書法、英語、外來語、外丹功、讀書會、參觀、郊遊、手芸等は楽しく、老化を防ぐに適する。 (常務理事)
一:玉蘭莊の会員第1号 ~ 野田敦子さん
彼女は所謂「湾生」、つまり台湾生まれの日本人である。祖父は德川幕府末期の某藩の家老に任じられた。時代が変わり父は時計修理を学んで,台北に移り「野田時鐘行」を經營した。敦子さんは台北に生まれ、一高女を畢業した後、日本商社、廈門日本軍部、台灣總督府でタイピストを勤めた。戦後は日本留学の中國人と結婚、三男一女が次々に生まれたものの、夫は出張中に車事故で亡くなり、野田さんが一家の大黒柱となった。
義父母が次々に世を去った後、日本友人から結婚祝いにもらった屋敷は上司に取られ、その後住んだ古い宿舍は豪雨で倒壊した。末子が大学就学中に鬱病で急死、嫁いで子供まで生んだ独り娘がトラックにはねられて即死、敦子さんは中風になり入院した。不幸を重ねて老後を迎えた彼女は堀田久子宣教師の世話で第一号会員として「玉蘭莊」で老後を過ごした。
二:苦悶の人生 ~ 羅梅妹さん
彼女は貧困家庭に生まれ、父母と共に苦難多き幼年時代を過ごした。
高等科を卒業後に逓信部の試験に合格,電信局の交換手となった。結婚後に夫が死亡、再婚後に二男三女が生まれた。継夫の死後に女児の養育の為に家を売ることにしたが、悪い業者に騙され高利貸から借金するに至り、名義の問題で法院に訴えられ、その家を競売にかけられた。濟南教會の許長老の好意で彼の家に暫時住み、後にオーストラリアへ移住して夫亡き長女の家事を助け孫娘の世話をした。そのような状況の中、夜は大学で日語を学び、修士号を取得。その後台湾に戻り、交通事故で植物人になった親友を助け、玉蘭莊の訪問ケア組に参加した。梅妹さんは苦しい環境で子女を育て、それぞれに高等教育を受けさせた。彼女は学に勤しみ、熱心なクリスチャンで、植物人間になった友人に報いる友情は今時の女性の鑑である。
三:戦乱逃避行 ~ 袁呂敏さん
太平洋戰爭末期に呂敏姉妹(日本人)は日本軍官の父と満州に渡った。間もなく父は軍の命令で東京に戻された。ロシア軍は満州に攻め入り、彼女は日本難民と戦乱を避けるに逃亡を続けた、途中に中国空軍の一少尉の世話に因って夫婦の縁を結んだ。男の子を産んで三日目、幌なしの列車に乗って逃亡の旅を続けた。
その後も国共内戦が続く。呂敏さんは夫の故郷へ逃難を続けた。飛行機、船、汽車に乗り、時には歩行、九死に一生の逃避行を続けて夫の故郷にたどり、長女を産んだ。夫と再会して間もなく、呂敏さんは長男を義父母にあずける為に田舎に戻った間に夫の部隊は出港した。
呂敏さん母子(長女)は船を待ち続け、やっと台湾に着いて夫と再会、部隊にしたがって転々と居を移した。後にはぐれた父と妹をさがし、父を台湾に迎えて孝行の償いをした。父の死後に呂敏さんは里に帰り、妹とも再会した。不在中に夫が新店に家を買った。一家は引越して間もなく夫が急死、後に大陸の祖父母に預けた長男と四十五年ぶりに広東で再会。呂敏さんの戦乱逃避行はNHK連続ドラマ「大地の子」に匹敵する、読者の涙を誘う物語である。
四:報恩記 ~ 許石枝長老(前理事長)
貧家に育てられた許少年はある日本婦人西川さんに激励されて、奮發努力して夜間商業学校の入学試験に合格した。且つ台灣總督府企劃部に紹介されて苦学を始めた、日本警察に協定的に日本海軍を志願させられた彼は、西川さんの優しい訪問を受けて厳しい訓練に耐えることができた。戦後復職した彼に西川さんははるばる高雄から衣類を背負って来てくれた。
戦後連絡が途切れた恩人の行方捜しにNHKの放送によって連絡でき、戦後二十年後に西川さんを台湾に迎えて恩に報いた。
許氏が戦後に苦学を続けていた時、傳染病で倒れ一日本教師に助けられて病院へ送られた。戦後行方を探したが、帰らぬ人となられていた先生の墓参りして恩に報いた。
五:戦前戦後的台湾教育
戦前の日本教育は明治天皇の教育勅語に基づく。教師は愛を以って学生を教えたので、社会秩序は守られ、人々は老人を敬い、幼い者を助け、人の恩を知る。その反面軍国主義が培われ、日本の亡国を招いた。戦後国民党政府が來台、学校教育は進学準備に偏り、徳育を軽んじた。且つ国策によって反共教育が実施され、社会秩序が乱れ、人々は自己主義になり,拜金主義の風紀を醸した。筆者は戦前、戦後の児童教育に携わった経験に基づいて、赤裸々に教育の優劣を挙げた。本文は日本のある出版社から原稿を求められて、立正月刊に搭載され、読者の好評を得た。
★玉蘭莊について
台北市松年福祉會(玉蘭莊)はシルバー族の日本語活動センターで、会員の平均年齢は八十歳に達し、高齢化社会の雛形とも言える。会員の教育水準は至って高い。戦前、戦後、台湾人に嫁いだ日本婦人、戦後に満州、中国大陸から避難して来た日本人。台湾に生まれ、育ち、教育を受け、結婚した「湾生」と呼ばれる元日本人、日治時代に日本教育を受け、日本語に親しみを覚えて参加する
台湾のシルバー族たちは、皆睦ましく楽しい余生を玉蘭莊で過ごしている。
日本教育を受けた台湾のシルバー族には、教員、銀行員、公務員、其他の職場からリタイヤした老人達もいる;子女が結婚して、寂しい毎日を送ってる家庭婦女も参加している。
皆意義ある楽しい晚年を求めて、玉蘭莊に参加している。此処の活動スケジュールはバラエティー豊かで、老人に適したプログラムを組んでいる。正しい信仰は老人に欠くべからざるもので、宣教の経験豊かな牧師を招聘して聖書に基ついて主の教えを学び、聖歌を歌う、その他の歌の時間には、なつかしい童歌、抒情曲、カラオケがある。歌以外にも健康講座、時事分析、書法、英語、外來語、外丹功、讀書會、參觀、郊遊、手芸等は楽しく、老化を防ぐに適する。 (常務理事)
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