「筋を通したイエス様の救い」/岸義紘牧師-(126)

ぼくが小学校四年生のときだったと思います。冬の寒い朝のことでした。お母ちゃんが、ぼくの寝ていたかけ布団をガバッ~とはぎ取りました。「きゃあ、お母ちゃんどうしたん?」ぼくは叫びました。そうしたらお母ちゃんが言いました。「よしひろ、起きられ。あんたはなあ、柴岡の紘ちゃんをいじめとるじぁろう。ウソをついてもおえん。お母ちゃんはきのうの夜、柴岡のやっちゃんのお母さんからぜんぶ聞いとるんじぁ。もう三週間ほど、みんなで柴岡の紘ちゃんをいじめとる!服を着なさい。今からすぐに謝りに行く!」


お母ちゃんが速足で歩きました。十メートルほどあとを、ぼくはついて行きました。柴岡の紘ちゃんの家は玄関にまだ鍵がかかっていました。おばさんが戸を開けました。「すみません朝早おに。ご主人はまだおられますか?ちょっとお詫びしたいことがありまして・・・。」出勤前のおじさんが出て来ました。お母ちゃんが何回も頭を下げて言いました。「実はうちの子が、お宅の紘ちゃんをいじめて、仲間の友だちといっしょになって、もう三週間も仲間に入れずに、のけものにしとるそうです。私は何も知らずにおりまして、きのうの夜に、柴田のやっちゃんのお母さんから聞かされました。ほんまに悪いことをしました。二度とこういうことがないように子どもに言いきかせますから、どうぞ赦してやって下さい。」


深々と頭を下げたお母ちゃんが、頭を上げたその瞬間でした。右手が飛んで来て、ぼくの顔をバシッ~となぐりました。「お母ちゃん~。」と言いながら、ぼくはよろよろと転びそうになりました。「おじさん。おばさん。ごめんなさい。二度と紘ちゃんをいじめません。」


帰り道にお母ちゃんがぼくに言った言葉を忘れません。「うちはなあ、弱い者いじめは絶対に許さんのじゃあ。お父ちゃんが戦争で死んで、うちは弱い家じゃ。それでいろいろいじめられることもある。お母ちゃんもおばあちゃんもつらい思いをしとる。うちはなあ、弱い者いじめは絶対に許さん!もし、それが気に入らんのんなら、どこの家でも好きな家の子になりなさい。うちに帰って来んでええ!」

 六十年昔のことですが、よく思い出す子ども時代のできごとの一つです。


みなさん。お母ちゃんは、なぜ、ぼくに恥をかかせるようなことをしたでしょうか。お母ちゃんだって、みっともないことだったはずです。


その理由は、ぼくが憎らしかったからではなく、ぼくを本当に愛してくれていたからこそ、でしたね。「この子が大人になって、みなさんと平和に、しあわせに生きていけるように。」母の愛が、その時、間髪をおかず、ぼくを柴岡の紘ちゃんの家に連れて行ったのでした。


愛の筋を通す。正義の筋を通す。筋をキチンと通した上で、赦して受け入れる。これが、ほんとうの愛、ほんとうの正義ではないでしょうか。
 

イエス・キリストさまの十字架は、タテとヨコの二本の筋でできています。まっすぐのタテの線は、神の正義の筋です。ヨコの線は愛の筋です。


イエスさまが、私たちのすべての罪をその身に負い、身代
わりとなって神の正義の審判を受けて、死んで下さいました。「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのか?!」と絶叫して死んでいかれました。こうして神の正義は筋を通しました。


イエスさまは「父よ。彼らをお赦し下さい。」と十字架の上で祈られました。「すべてが終った。完了した。父よ。わが霊をみ手にゆだねます。」と言って息を引き取られました。


イエスさまはご自分の命を引きかえに、愛の筋を通されました。こうして、私たちは罪が赦され、神の子どもたちとして受け入れられ、天国に入る永遠の命が与えられたのです。


筋を通して裁き、筋を通して赦して受け入れる。


イエスさまの救いをいただいた私たちは、正義と愛の筋を大切にして、おだやかに、しあわせに、みんなで生きて行きましょう。

          一月二十九日の玉蘭荘でのメッセージ

評論: 0 | 引用: 0 | 閱讀: 3724