「聖書に親しむ会」がて/うすきみどり牧師-(127)

「玉蘭荘って贅沢だなあ、毎週二回必ず活動日は礼拝から始まるんだ・・・・」。毎月の活動予定表を頂く度に、様々な牧師や長老の方々のご担当を見ながら、出席される方々も楽しみだろうなーと、こちらがわくわくする思いでした。


そうして玉蘭荘にご奉仕させて頂くようになって一年を過ぎた頃、「玉蘭荘では、日頃クリスチャンに限らず、皆一緒に聖書を学んでいますが、更に深く聖書を学びたい方や日常生活での悩み疑問など相談したい方々の為に、小グループで、聖書を学び、み言葉を味わう場を、活動日の礼拝以外に持ちたいのですが、ご協力頂けますか?」というお話を今井文子総幹事から頂きました。求めている方がいらっしゃる・・・・そのことを伺っただけでうれしくなり、ぜひお手伝いさせて頂きたいと思いました。

そうして毎月第一水曜日の午前中に「聖書に親しむ会」を設けて頂きました。対象もクリスチャンなのか、そうでない方が多いのか、また月金曜の活動日以外に一体どれ位の方が集まって頂けるのか、蓋を開けてみなければ分らない状態でしたが、聖書そのものにもっと親しめる時間に、礼拝のように一方的に聞くのではなく、参加者がもっと自由に話せる時になればと、総幹事、理事の方々と祈り、ご協力頂きながら二〇〇八年十月に始まりました。

第一回目は、参加者同士の自己紹介で始まりました。月一度の礼拝だけでは、皆様のお名前すら存じ上げませんでしたから、初めて顔と名前が一致し、今まで以上にぐっと玉蘭荘

が具体的に身近に迫ってきました。

イエス様は大勢の群衆を前にも語り続けられましたが、何よりも一人ひとりとの出会いを大事に、いえ、むしろ周囲から見失われていた一人ひとりに出会うために旅され、個人との確かな出会いの中で、主の愛の深さを伝えて行かれたことを改めて思わされました。そして、イエス様が体の弱い人、貧しい人、女性、差別されていた職業の人たちのところへ来られ、語りかけ、交わっていかれたことがたくさん記されている「ルカによる福音書」を続けて読んでいく事にしました。


最初に皆さんが親しんでおられる十九章の徴税人ザアカイの物語を読みました。イエス様が町に入ってこられた時に、イエス様がどんな方か見たい一心で近づくザアカイですが、「十九章三節イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」という聖書箇所は、原文のギリシャ語でも、実は誰の背が低いのか主語が書かれていません。一般にはザアカイは背が低かったと言われていますが、ある新約聖書学者の受け売りをしますと、この一節だけ読めば「イエス様の背が低かったので、見えなかった」とも読めるのです。こう言えば、今まで皆さんがイメージされていたイエス様と違って思えるでしょうか。聖書に親しみながら、もっと自由にうれしく楽しくイエス様に出会って頂きければと思っています。


そして誰からも相手にされていなかったザアカイの家にイエス様が来てくださると言ってくださった時、私たちがザアカイ自身だったらどう感じ、どう反応するでしょうか。この場では、ご出席の皆さんの思いやこれまでのご経験、今直面している事柄と重ね合わせて読んでおられるその思いを自由に語り合ってくださいます。私にとっては人生のご先輩ばかりで、想像を超えた歴史のただ中を生き抜いてこられた方々ばかりですから、こうした語らいの中、私自身多くの教えを頂いています。


一方、この会以外にもうれしいことがありました。欒茉莉さんの受洗です。

玉蘭荘には、イエス様のことが気になりながらも、頻繁に外出できない方々もおられ、今井総幹事についてご自宅を訪問させて頂くようになりました。その中で、欒茉莉さんとの個別の出会いに大きな恵みを頂きました。神様は「適った美しい時」を九三歳の茉莉さんに与えてくださったのです。


それまで人生指南書や英語学習の教科書として親しまれていたかもしれない聖書の出来事が、事実とし茉莉さんに迫ってきたのです。訪問時に、茉莉さんから楽しいお話を聞かせていただいていたところ、突然茉莉さんがこう語られました、「私は罪人です。最近、十字架に架けられたイエス様が目の前に顕れるようになったんです」と。驚きました。豊かなご経験の中で、後悔や今気になっていることなどを思いめぐらしながら、主の前に一人の罪人であったことを茉莉さんは知られたのでした。そしてそれは罪人として終わったり、放っておかれるのでなく、十字架上で贖ってくださるイエス様が、既に茉莉さんのもとにいらしてくださっていることを、茉莉さんがご自身で認識されたのです、出会われたのです。この告白を聞いた私たちも、茉莉さんがしっかりとイエス様に捕らえられていることを知らされました。九三歳を過ぎて尚、主に帰ることができる柔軟な心をもち、今や新しい命を頂く者として、新しい人として歩み出すことができることを、その主のみわざを、茉莉さんを通して知らされました。それからまもなくして、長くお世話されていたご主人が先立たれ、深い失意と悲しみが与えられ、続いて茉莉さんも思いがけない転倒で体を痛められましたが、このご年齢で大きな手術を受ける体力と乗り越えられる気力や希望を備えられました。


今、茉莉さんにお会いしに行くと、おしゃべりというより、「聖書を読んでください、聖書のお話をしてください」と言われます。聖書のみ言葉が、茉莉さんの中で命の泉として昏々と湧き出て潤しているのです。


皆様、体が段々と思うようにいかなくなるご年齢でありながら、「聖書に親しむ会」が始まって一年八か月間、当初からご出席の方、また途中からご出席の方々が、ご都合がつかない限り以外は、足を運んでくださることと、それを守られる主の招きと支えに感謝です。この会に御電話等でお誘いかけてくださる方々にも感謝です。


教会に行ったことがある・ない、自分や家族が他宗教であること等に関係なく、ご希望あれば、個別にお話を聞いて祈ったりできる時間をも持ちたいと思います。ご遠慮なく、今井総幹事や理事の方々、私の方へ御連絡いただければうれしく存じます。

  玉蘭荘の場が、そのお働きが、誰よりも私たちを憐れんでくださる主イエス・キリストとの新たな出会いやより深い出会いとなっていくことを願っています。

(国際日語教会牧師)

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