玉蘭荘の礎を築いた許長老/張明徳-(129)

ある日僕の家の前に立っている電柱に仲介業者の広告が貼られていた。直ぐ家内と見に行った、地点は申し分なし、面積も手頃、交通は便利でもって来いの家だ、只仲介人が示した価額は非常に高く、これでは手の施しようがない。


許理事長に電話を掛けてこの事を報告した。彼は不動産売買に詳しく、翌朝来て見た結果、彼も理想的な場所だと言った。業者に安くしてくれる様に掛け合ったが、どうしても値下げを承諾してくれない。そこで我々は「家屋購入推進班」を組織し、本格的に取り組むことにした。そして、早速メンバーは家主を訪れた。玉蘭荘は日本語活動の老人福祉団体で家を買う積立金が足りなく、僕たちは無償奉仕で運営していると実情を細かく話したところ、やっと原価で売ってくれることになった。当時の運営委員長であった連碧玉姊が改装委員に選ばれ、彼女の懇意の業者に交渉して、かなり安くしてもらえた。内装がスムーズに完成して一九九六年十月十七日の夜に小型トラック九台雇って引越した。許理事長は敦化南路三七五号十二階のもとの借家にいて、運搬屋の指揮に当たり、僕たち夫婦は信義路の新しい家で運んできた荷物の置き場を指図した。引越しが終わったのは深夜二時すぎであつた。


ヤドカリの殻を離れた玉蘭荘の新しいスタートが始まった。 十一月三日の午後に感謝礼拝が厳かに行われた。会員やゲストを含めて百二十二名、創立以来の大盛況であった。 だが(多額)の負債を背負って歩むの荷が重過ぎる。この難題を解決する為に理監事会議を開き、返済方法を話し合い、タノモシ会の形を採ることにした。無利息で返還順序は籤引きできめる。多くの熱心な会員が参加し、楊約西理事は大金を無利子で貸して呉れた。理監事は企業者や慈善家を訪れて募金したり、日本の「玉蘭荘を支える会」も熱心に支援してくれた。ボランティアの馬場さんのお姉さまの声楽家矢野蓉子教授はピアノ伴奏の阪本朋子教授を伴って、旅費滞在費自己負担で慈善音楽会に度々出演し応援して下さった。すべて愛の支援である。それはリーダーである許理事長の心暖かく熱心な奉仕の精神が支援者を感動させた所以でもあった。


ヨチヨチ歩きの赤子に等しい玉蘭荘をたくましく育て、今や多くの人に知られる老人福祉会に発展させた許長老の功績は、いつまでも皆の脳裏に残るだろう。又、彼は毎月欠かさず献金し続け、支援者や音楽会出演者慰労会の経費も負担した。ついに玉蘭荘は、願いを成就させ家を購入、台北市に「社団法人台北市松年福祉会」と正式に登記した。会員の団結、大勢の人達の熱心な支援で多額の負債は三年余できれいさっぱり返済できた。


理事長の任期は台北市の規定によって二期(六年)と限定され、次期理事長に高李麗珍牧師夫人が選ばれた。新理事長のリーダーシップの下、玉蘭荘は益々発展の一途をたどった。任期が満ちて許長老が再び選ばれた。光陰矢の如く又六年の歳月が過ぎて,翁修恭牧師の推薦で蔡仁理牧師が後を継いだ。玉蘭荘は更に高い理想を目指し前進し続けている。許理事長は通算十四年間も理事長として玉蘭荘の為に奉仕したのである。


許長老は理事長を引退した後も栄誉理事長として熱心に奉仕を続けた。彼曰く玉蘭荘は老人の晩年の憩いの場である。此処で多くの老友と共に歌い、牧師より信仰の話しを聞いて心安らぎ、外来語、英語、習字、健康講座によって老化を防ぐ。ピクニックやその他の活動も老人の楽しいプログラムである。そして憂いあれば互いにいたわり、励まし、歩んできた人生を語る等、玉蘭荘は老人のパラダイスだと言っても過言ではない。


許長老は公務員を退職後に神学校の夜間部で学んだ信仰篤い人なので、多くの教会、老人大学から招聘されて活躍している。玉蘭荘の礼拝の時間でも、聖書を説き、自分の信仰の証をして未信者を導いてきた。


世話好きな彼は高齢者をいたわり助けた。ある年のピクニックに歩行困難の野田さん(日本婦人)が車椅子に乗ってボランティアに押されて参加した。険しい坂に上れず、許長老は体重がかなり重い彼女を負ぶってフウフウと息切らしながら上って,皆から拍手喝采された。


又敦化南路十二階のビルを借りて活動していた頃に、万一の火事に備えて避難訓練を行った。彼は屋上に滑車をすえ付けて自分が籠に乗り、会員がロープを曳いて地面に降ろした。万一ロープが切れたり、籠が歪んだりしたら、非常に危険である。こんな冒険を彼は会員の安全のために率先垂範してくれた。


許長老は貧困の家庭に育ち自力で富を築いた努力家である。

だが生活は常に質素、倹約を守り,公のためには巨金惜しまず献金し、力を注ぐ人柄である。また彼は台湾を愛し、民主運動に熱心で、かつて国民党の情報局に捕らわれ審問された。神様に護られて事なきを得たと彼は常に信仰の証をする。


聞けば聞くほど僕は敬服して彼の伝記を一冊の本にまとめたくなった。玉蘭荘の重要性と彼の立志伝を世人に知らせようと思って同意を求めた。彼は、玉蘭荘の為ならと同意してくれ、ピクニックの際の車中や国外旅行のつれづれに詳しく彼の来し方を話して貰った。

「神の愛と茨の人生」は二年掛けて完成した。高俊明牧師の墨跡と翁修恭牧師の序言を巻頭に飾って、×××ページの単行本を発行した。収入の一部分は玉蘭荘に寄付し、日本の支援者や友人に頼んで販売したのは赤十字社を通じて新潟大震災の義捐金に当てた。台湾中部大地震に日本人が支援してくれた返礼に玉蘭荘として心尽くしの献金である。外交部も玉蘭荘は政府に代わって国民外交をしたと電話をかけて、許長老の義挙を褒め称えた。


「神の愛と茨の人生」の文中、最も読者が感動したのは、許長老の報恩記である。貧困で進学できない彼を励まし、職業を紹介し、昼間働きながら夜間の商業学校に通って立身の糸口を作ったのは日本婦人安川さんのお蔭である。又、夜間学校に就学中、流行性脳脊髄膜炎で倒れた彼を、見ず知らずの日本人教師が彼を負ぶって入院させてくれたお蔭で助かった。戦後行方不明の二人の恩人を探して二十年後に安川さん親子を台湾に迎えて恩返しし、その日本人教師はすでにあの世に旅たち、その墓参りをした。


その後に翁修恭牧師と荘経顕牧師から日本語が読めない台湾人にも読ませるべきだと勧められ、また一年掛けて中国語に訳し、済南教会で新書発表会を開いた。多くの読者は許長老の信仰の深さ、熱心な社会奉仕、報恩に感動して、メールや電話で彼の功績を褒めた。翻訳書(中国語)は楽山園療養院の智能障害児童施設、(許長老はかつて楽山園の理事でもあった)宜蘭の林義雄慈善基金會にも寄贈した。印刷代や郵送費用はすべて許長老が負担し、収入の使い道もすべて彼の希望であった。


時は流れ、玉蘭荘は創立してから二十一年になる。許長老も齢八十五歳になった。 昨年の十月初旬,彼の健康に赤信号が点った。現在、萬芳病院に入院して病魔と苦闘している。 玉蘭荘の役員や会員、済南教会の高齢者組の会員も彼の回復を熱心に神様に祈り、度々見舞いに通っている。彼の病状はよくなったり、悪くなったり一進一退である。しかし、神様はきっと長老の苦労と功績、深い信仰を知っておられる。         

私達の敬愛する許石枝長老(玉蘭荘前理事長)の一日も早いご回復を、これからも皆で共に祈って行きたい。

(常務理事)
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