クリスチャンのバッジ/呉淑金牧師-(131)

バッジは今の社会でも良く使用されている一つの飾り物でもあります。

学生たちはかばんに学校のバッジを付けています。役所の人たちもよくその勤め先のバッジを制服に付けています。社団法人の職員たち(例えばロータリークラブのメンバー)もよくそのクラブのバッジをスーツに付けています。その外に大企業の人、工場の工人、軍隊の長官や仕官などもそれぞれのバッジをスーツの胸や肩、或いは帽子につけます。

これ等のバッジは、見せる相手に自分の身分や職場を分り易く見分けるためです。

同時に相手は自分の団体や職場の人を見分けられ、仕事の連絡がたやすくなり役立ちます。

クリスチャンもその身分を代表するバッジを付けねばなりません。それは一方では、キリストの弟子であると人に見分けが付くためであり、また他方では、外のクリスチャンと出会ったら、すぐお互いに自分達はキリストに属する者だと認識でき、ある程度の交流ができるわけです。

お互いに交流し助け合い、またお互いに見守り協力して、悪魔やこの邪悪な世界と戦うことが出来ます。

今年の五月十四日に、私の勤め先の台湾女子神学院のコーラス部(雅歌聖歌隊)一行四十二名は、遥々中国の上海、無錫、蘇州や杭州へ福音演唱の旅行に行きました。旅行の前に、私たちは今回の旅に憧れの気持ちを抱き、また中国に対する好奇心もいっぱいでした。上海に着いてから、私たちはすぐにキリスト教会(鴻恩堂)をお訪ねして、賛美歌を演唱しました。

この教会は約六アールの広さがあり、千二百人もの集会が出来ます。私たちが鴻恩堂に着いた時、牧師、伝道師、奉仕のボランティア達や数名の兄弟姉妹が、既に教会の外で待っていて温かく出迎えて下さいました。

早速私たちコーラス部を前方の祭壇の奥の方に座らせ、真正面から見ると、とても厳かな雰囲気でした。礼拝の後、私たちは教会の信徒たちと話し合い、その情熱や真心のこもったまなざしに、正にこの方々は私たちを身内として扱ってくださっていることを、ひしひしと想わされました。              引続いて、私たちは他の教会(感恩堂)へ参りました。この教会は約九アールの広さがあり、やはり約千人の集会が出来ます。コーラス部の賛美歌や礼拝に続き交流会でも、この教会の信徒たちの熱心さや神の愛に満ちていることを、つくづく痛感させられました。

私たちは、また杭州にある浙江神学院を訪ねました。副院長、教務長、はじめ教員や学生たちに歓迎され学院を見学しました。そして私たちのコーラス部は賛美歌『エホバの祝福に満ちる』を歌い、お互いの祝福を祈りました。この神学院を訪ねたのは初めてなので、今迄にそこのクリスチャンと出会ったことはありませんが、何故こんなに親しみを覚えたのでしょう?それは、お互いにクリスチャンのバッジを付けて主の家族の一員だからです。

しかし、クリスチャンのバッジはどのようにして見分けますか?

ある人は、クリスチャンのバッジは十字架だと考えています。それで多くの人は十字架を金のチェーンに繋げて、十字架のネックレスにしています。またある人は十字架をバッジとして、胸に付けています。このバッジはイエス様が私たちに配ったものではありません。それは簡単に偽造できるもので、また多くのノンクリスチャン(未信徒)も付けています。そうすると、我々クリスチャンの真のバッジとは何でしょうか?

イエス様は言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい。互いに愛い合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書十三章三十四〜三十五節)

これこそ、イエス様が私たちに与えられたバッジを,身にあるいは胸に付けるみ言葉です。このバッジは単に可愛く綺麗だけではなく、見分けやすく、更に偽造は絶対出来ないものです。これは天で作られたもので、地上では作れないものです。私たちはこのバッジを大事にすること、それは、私たちを愛し、私たちの為に命を捨てられた主が、自ずから造られ,私たちに下さったものです。

私たちはこのバッジを付けるべきです。それは主が自ら私たちにそれを身に付けるよう命じられたものです。

「あなたがたに新しい掟(おきて)を与える。互いに愛し合いなさい。」そして、主も自らこのバッジを付けられました。

イエスは言われた。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい。」イエス様は自らこのバッジを付けられ、イエス様も私たちにそれを付けて下さり、私たちが主のものであることを示されています。

主は私たちが主のものであることを見分けて、主は私たちが主の弟子であることを世間の人々に知らせるのです。

「あなたがたが互いに愛い合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

皆さん、私たちは主のものです。私たちは愛のバッジを付けていますか?

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの手紙 一 四章七〜八節)

「愛することのない者は神を知りません。」このみ言葉はなんと厳しい一言でしょう。しかし、これは現代社会の現実です。普段、人間は自分の事しか考えません。そして金儲けや名誉や自分だけ楽しめることにこだわります。

私たちの主は愛を持って私たちを愛します、そして、私たちも愛し合うことを求めています。いったい主の愛とは、どんな愛でしょうか。

〔一〕主の愛は無私の愛です。
これはすべてを他の人に無条件に施すことで、私たち自身何の役に立つのかを考えないことでしょう!皆さん、この無私の愛は神を褒め称え、人に役立つことを施します。

私が幼い時、次のような物語を読んだことがあります。

「ある川の上に、一本の丸太が橋として架けられていました。その橋の上を二匹の羊が両側から渡って、丸太の橋の真ん中で出会いました。彼らはどのようにすれば、向こう岸に渡りつくことが出来るでしょう?」この丸太は、狭くて、二匹の羊が同時には通れません。回れ右して戻ることも出来ません。もしお互いに争うと、とても危険で、同時に川へ突き落とされて、溺れて死んでしまう恐れがあります。                     彼らはこういう状態で、どうしたらいいでしょう?
この二匹の羊には、妙案があります!それは、一匹の羊が両足を屈(かが)んで、体を丸太にひれ伏して、もう一匹の羊が、そのひれ伏した羊の体の上を跨いで歩き渡ります。こうして二匹の羊は無事に向こう岸に着くことが出来ました。
この物語は皆さん訊いたことがあると思います。つまりそれは、私たちが神の羊として、互いに譲り合い、助け合うことです。
 

〔二〕神の愛は犠牲の愛です。
イエス様の愛には限りがありません。
私たちがイエス様の愛を求めるとき、神の与える愛はあくまでも多すぎることはありません。イエス様は私たちの罪を贖う為、十字架の道を歩み、十字架に掛けられて死にました。これは正に犠牲の愛です。

「神はわたしを愛し、わたしのために身を献げられました。」(ガラテヤの信徒への手紙二章二十節)
中世、フランスのマルセイユ市各地に、流行病が蔓延るようになりました。都市の医師たちは病原菌を追及するために、一人の流行病犠牲者の死体を解剖する議決をしました。しかし、解剖をする医師は、流行病の病毒感染で、中毒死を免れることが出来ないはめになります。
 

そのとき、ケーインと言う博士は解剖の専門医として有名でした。彼は自発的に、「私は国家の安全を保つために犠牲になります。明日の朝、わたしは解剖をやります。」と述べて会議室を後にしました。そして彼は遺書を書いて、一晩神の前で祈り、神と交わりました。
 

翌朝、ケーイン博士は死体の解剖に取り掛かりました。すべての死体解剖の観察状況や新発見の事実を悉く詳細に記録し、またその記録も消毒液(酢)で消毒し、医師たちのグループに届けました。そして彼は十二時間足らずの内に亡くなりました。
皆さん、ケーイン博士のこのような犠牲は、人々を深く感動させます。この物語からも、イエス様の犠牲の愛を学ぶことが出来ます。
 

〔三〕主イエスの愛は慈しみの愛です。

イエス様は弟子たちと約三年間生活しました。
彼は一人一人の弟子のことをご存知です。彼は彼らの思い悩みや苛立ち、弱点をご存知にも拘らず、彼らを愛しました。
「愛は盲目である」と私たちは言います。この言い方は正確ではありません。盲目の愛は現実ではないことを、ただ想像の中で愛することです。

真の愛は目をはっきりと見開くことで、想像の中に対象を探すのではありません。愛は現実の中にあるものです。イエス様は情け深いお方です。彼は私たちの現実のままを愛します。イエス様は私たちが良いときに愛するだけではなく、私たちが良くないときにも愛してくださいます。

弟子たちが争い合っているときにも、彼らを咎めず,跪づいて弟子の足を洗うのです。弟子たちが誓いながら彼を拒むときも、弟子たちを恨まず、ただ弟子たちに向って優しいまなざしを向けるだけです。

弟子たちが疑っているときに、彼は弟子たちを捨てず、釘で傷された手とわき腹の傷を弟子たちにお見せになりました。
彼はこの世で弟子たちを愛されたように、今でも私たちを愛されています。
彼は私たちに「互いに愛しなさい。」と命じられました。 

それは、イエス様が私たちの苦手や欠点にも構わず、私たちを愛して下さるように、私たちも互いに長所を褒め合うときに、愛し合うだけではなく,互いの短所や欠点にこだわらず愛し合うことです。

このように愛し合うことは、正にたやすいことではありません。しかし、私たちはイエス様がどのように私たちを愛されたかを思うと、そのように実行すれば、そんなに難しいことではないと思います。

皆さんは、クリスチャンのバッジを身につけていますか?

今日、主は私たち一人一人がクリスチャンのバッジを付けるように、そして、私たちが主の弟子であると見分けられるように願っています。

神様のみ心は、私たちによって喜び、私たちにも必ず更に豊かな祝福が、日々与えられるでしょう。 
訳:陳旭星長老   (聖書の引用は新共同訳を使用)

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