老人生活の知恵/翁修恭牧師-(133)
editer: date: 2012-01-20 15:59
皆さま、お久しぶりです。私は張明徳常務理事よりお招き頂き、玉蘭荘で皆さまと再びお話しをすることが出来ることを嬉しく思います。今日、私は「老人生活の知恵」いわゆる「老人生活のレベルを高めるコツ」を一つのテーマとして、今日は台湾語で皆さまにお話しさせて頂きます。
一、生活レベルを高めると言うことは、生活の質をより良く築くことです。
今の社会は正に高齢者の時代になりました。二〇一〇年台湾人の平均年齢は七十九・四歳で、女性は八十二・六六歳、男性は七十六・一五歳です。(日本人は更に長生きで、世界中で一番長命の国です)六十歳定年と考えると,男性は十六年、また女性は二十二年余りの人生が残っているわけです。この余剰の人生を如何に上手く過ごすかは、あなた自身が考えるべきでしょう。
旧約聖書の詩編九十編一〇節にこう書いてあります。「我らのよわいは七十年に過ぎません。あるいは健やかであても八十年でしょう。しかしその一生はただ、骨の折りと悩みであって、その過ぎ行くのは速く、我らは飛び去るのです。」(口語訳)聖書は「...に過ぎません」や「...でしょう」を用いてその背後の意味を示しています。新共同訳には「...に過ぎません」と書かないで、ただ明確に「人生の年月は七十年程のものです」と書いてあります。「...にすぎません」は「僅か」や「...を越えない」の意味なので、「あるいは健やかであっても八十でしょう...」 しかし、神が決められた期限は時として破られることもあります。その条件となるのは、その人が健康であるかどうかということです。
現代の人間は医学が発達し、生活の環境も良くなり、平均寿命は長くなりました。しかし、「七十にすぎません」或いは「八十でしょう」といずれにしても、人間の寿命は限られていることを示しています。ですから、私たちは生活を充実させなければ、質的に優れ、限られた量を補うことはできません。その為、ある詩人は神に求めました:「我らにおのが日を数えて、知恵のこころをお得させてください。」(九十編十二節) そしてまた求めました:「明日に、あなたの慈しみを持って我らを飽き足らせ、世を終わるまで喜び楽しませてください。」(九十編十四節) この二箇所の聖句で詩人は神が与えられたより良く暮らす人生の意味を力説し、それは私たちが老後の暮らしの充実を求めるには、信仰こそがその基盤となり、私たちの力の基ともなることを表しています。
二、年齢の数え方。年齢はどのように数えますか?
一つの数え方は、いわゆる「曆法」の標準的数え方で、暦の英語はCalender、日本語ではカレンダーです。その数え方は、一年過ぎたら一歳、時間の進み方によって歳を数えることです。これはもっとも客観的で、公平な数え方です。今の病院の病歴表も患者の年齢を記録して、何才何ヶ月まで表ししています。
もう一つの数え方は、いわゆる「健康」による年齢の数え方です。各地にある病院へ身体検査に行くと健康年齢を示す標準表があります。ある人の健康年齢は実際の年齢より若く、また、ある人は実際の年齢より老けています。健康用品店などにある人間の健康を計る器具は、身体のすべての必要な項目を入力することで、自分の健康状態を知ることが出来ます。健康は老人生活の質を決める重要な要素です。私達はいつもそれを重視しなければなりません。
又、もう一つの数え方は、精神あるいは心理年齢による数え方です。この数え方は客観的にでは無く、自分の考え方によって計ることです。つまり、自分の歳を自分で何歳か決めます。その代り、決めたことは自分が責任を取ることです。過去の社会は、伝統的で、特に高齢者は自分の年齢を実際の歳より多く装います。また、自分が人より成熟していることを示すことが尊敬されることと思う心理です。それは、昔の敬老と尊厳の文化から残された古い観念の影響でしょう。しかし、こういう思想は既に価値観を失っています。聖書にこう書いています:「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。」(レビ記十九章三十二節) 老人を敬うことは美徳であります、しかし、それは自発的であるべきで、また老人はそういうことを自分に求めないことです。
三、自分の狭い視野を捨て、広い世界を知る。
人生は学ぶことから始まり、職場を定年になるまで、いくつかの段階を経て、それなりに成熟していく事を示さなければなりません。
第一段階は生まれてから二十歳或いは二十五歳までの学習期、この時期の終わる頃にはそれなりの成績表を出します、その中には学習されたことと成績が記録されています。
第二段階は二十歳或いは二十五歳から五十五歳或いは六十歳までの「履歴書」を出さなければなりません。その「履歴書」には成し遂げた事を描きます。
第三段階は五十五歳或いは六十歳から、つまり定年後の時期は職場から開放されて、圧力なしに気楽な生活が出来ても、体の状態は歳と共に老化し、さまざまな病に襲われて、病院へ通い、治療を受ける事でこの時期に「カルテ」が登場します。ある人は二ヶ所以上の病院へ通い、二つ以上の「カルテ」を持つ場合もよくあります。
第三段階は人生を歩み終わったときに書かれる「故人履歴書」です。いわゆる故人の一生を描いて、お葬式に発表される記念文章です。
以上の話は多少いたずらっぽく皮肉に思えるかもしれませんが、それは、人生の側面を描写しています。一人ひとりの人生の歩みは、歩くほど狭くなり、険しくなります。その経歴は人の心や行動や生活に影響を与え、知らぬ間に性格が、消極的で、意気地がなく、内向的になります。ある人は自分を狭い部屋に閉じこめて、孤独な生活を送っています。
私たちは良くこういうことを聞きます:「百歳になると百キロの重荷を背負えません。」この諺は、人間は能力と体力が限られていることに気付かせて、自分の能力を超す責任を背負わない。しかし、これは決してわれわれを消極的で意気地の無い内気な性格に変えるのではありません。
私たちも良くこういうことを聞きます。「人間は老いるほど学ぶことは多い」或いは「動くほどに若くなる」 高齢者に学ぶ機会を与える為、各地に「老人センター」や「老人大学」が施され、高齢者に勉強する場所と機会を備えております。私たちはその施設をよく利用して、活動に参加させて頂きましょう。そうすれば,性格が積極的になり,心も体も健康になります。
四、穏やかな気持ちで、人と温かく付き合う。
高齢者は体が衰えると、物事に消極的な心理をもち、孤独や自己嫌悪に陥ります。私たちは老人の話し方や態度にこのような傾向をみることがあります。老人はよく自分を「年寄り」と呼びます。それは、もう年だから、もう駄目だと感じているようです。しかし、老化は事実ですが、駄目とは限りません。まだ出来ることは沢山あります。「駄目」は物が古くなり、もう使われないから捨ててしまう意味です。こういう観念は人を物質化し、動物や植物のように扱う。動物や植物は老いて死ぬ、むしろ,人間の命は動物や植物と比較できません。人間は神にかたどられて造られ、神の働きと性質が与えられている。ですから、人間は動物や植物に無い貫禄があり、神が人間を重視する限り、人間はなおさら自分を軽んじてはならない。この理由において、われわれは聖書にもとずいて、自分を「年寄り」と呼びません。
私たちは決して自分や他人を「年寄り」と呼びません。もし若い人がこうして老人を呼ぶならば、すぐさま制止して、その間違った理由を教えてあげなさい。又、それと同時に、老人も話し方や態度を注意するべきです。これを老年齢の階層へ述べ伝え、社会の良い風紀になるよう努めましょう。老人を敬うことは美徳ですが、敬う態度が行為を通して表現されるべきことです。しかし、それを他の人に求めることでは無く、その人の自発的な行いでなければなりません。若い人に親切されたら、遠慮無く穏やかに受け取ります。例えば、バスや地下鉄で席を譲られたら、遠慮なくその厚意を受け入れましょう、そして忘れずに「有り難う」とお礼を言うことです。もしも若い人が席を譲ってくれなくても、気を落とさず、なおかつ、悪言で仕返すならば、自分の気分も悪くなり、相手もぎこちない目つきになり、車内の他の乗客にも不愉快な思いをさせることになります。
高齢者は、老いて行動が鈍く、大衆に迷惑を掛けるのは確かです。しかし、適当な言葉や態度で、堅苦しい雰囲気を和らげ、穏やかな雰囲気を醸し出しやすくできます。願わくば一人一人の老人が平和の使者になり、朗らかで愉しい社会を作りましょう。
(陳旭星理事訳)