「母の日」に因んで/邱明慧-(135)

母こそは「命の泉」、母がいとし子を抱いて微笑む姿は、花よりも美しく、清らかです。今日は「母の日」で、教会では、牧師の祝辞と、子供たちが元気な歌声で「母の日」の歌を披露し、代表たちが代わる代わる母を称える作文を誇らしげに朗読しました。散会の際には、一輪のカーネーションが配られ、母への思いがより一層高まりました。   

  私の母は一九一〇年、九人兄弟の長女として生まれました。小さい時から器用で、親思いで、よく幼い弟や妹の世話をしました。

  学業成績もよく、田舎の小学校から見事、台南第一高等女学校に入学して、卒業後は洋裁学校の先生をしていました。二十三歳の時に、当時製糖会社の見習い技師をしていた父と結婚し、翌年に私と双子の弟を出産しました。初産でしかも、双子だったので、私が先に生まれた後、お腹の中に未だ一人居ることが分かって、慌てて、一時間も手間取って、やっと二人目を産んだそうです。昔の事ですから、事前の診察も何もなく、産婆の手に委ねたあげく、母は大出血して、危く死にそこなったそうです。

  翌年、父母は幼子を抱えて、高雄県の田舎の砂糖きび畑の真ん中の農場宿舎に移り住みました。そこには電気も水道も無く、周囲は森に包まれ、砂糖きび畑が延々と広がるところでした。 

  記憶に残ることは、父が朝早く、足にゲートルを巻いて出かけて行き、砂糖きび畑の監督をし、帰ってくるのは夜遅く、私達は暗闇の床の中で、父と母の会話を聞きながら、眠りました。母は毎日子育てと家事に勤しみ、庭で野菜を植えたり、鶏を飼ったりしていました。田舎生活に甘んじて、黙々と私達を育ててくれました。

  家の隣は日本人で、同じ年頃の子供が二人いたので、昼間は彼等と庭や砂糖きび畑で遊び、夜は蛍狩りをして楽しみました。終戦後、十三歳になるまでは日本語を使っていたので、私の母語は、実は日本語なのです。歌の好きな母はよく蓄音機で日本の童謡を聞かせてくれました。

  母に与えられた試練は続き、太平洋戦争の末期、父は海外に派遣されました。三十六歳の若さで、母は五人の子供を抱えて、台南市の郊外に家を借りて住んで居ましたが、戦火は段々激しくなり、米軍の爆撃を逃れて、母は私達を連れて台南県の善化農場へ疎開しました。そこは電気も水道も無い田舎でした。母はそこで鶏や鵞鳥を飼ったり、家財や着物を繰り出し、近所の農民とお米や薩摩芋に交換してもらい、私達に食べさせてくれました。そこで終戦を迎え、一年ほど経ってから、父が派遣地から無事帰還して来ました。疎開地では、毎日弟たちと魚釣りや貝掘りを楽しみました。母の不安や憂いも知らずに過ごした少年時代を悔いつつ、母の面影が思い浮かびます。

  父が製糖会社の職に復帰して、生活も安定したかのように思われたのも束の間、物価の高騰や二二八事件等の荒波に巻き込まれ、又しても不安と困難の中に落ち込みました。神様の庇護のもと、父母の並々ならぬ苦労のお蔭で、私達兄弟三人は中学から大学へ進学、兵役を終えて、私と次男は公務員の資格を取って職に就き、三男は奨学金でアメリカに留学しました。  

  母は一九九九年に、八十九歳で亡くなりました。母が亡くなる一年前に、私は洗礼を受けてクリスチャンになりました。病床の前で、その事を母に告げると、母は優しい眼差しで私を見詰めて、ゆっくりと頷いてくれました。

  母の人生の黄昏の日々に、今井さんと菊野さんが家によく来てくれて、母と歌ったり、昔話しに花を咲かせて、楽しい一時を過ごせた事を、心から感謝して居ります。 (理事
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