私の父の思い出二つ/余甚足-(136)

五月の母の日に「玉蘭荘だより」に母の事を書きましたが、父の日にも是非父の事をも書かなければ申し訳ないので、再び筆をとりました。

一、 私の父は一炭鉱夫から努力して鉱山経営者になり、六十二
歳の時に胃潰瘍でこの世を去りました。これからもうひと活躍をという時でした。戦時中(昭和十八年)の薬や栄養品が手に入らない時代で、入院もせず、自宅で亡くなりました。

その夜、父を囲んで家庭礼拝の最中、親に抱かれた片言しか話せない兄の息子(二歳)が急に窓側の天井を指差して、「おじいちゃん、おべべ(服)、きれい、きれい。」と叫び続けました。皆がその方向を見ても何もありません。聖書に「天国はけがれを知らない幼児のもの」とありますように、信仰に篤い父が天国に迎えられたのを幼児である孫が目の当たりにしたのでしょう。

父は在世中、いつもにこにこ温厚で、誰とでも親しくし、教会で
は長老の職につき、熱心に福音を述べ伝え、現在の瑞芳長老教会の土地を献納しました。このような父の最期を見て、私は父が天国に行った事を確信し、もっともっと信仰を深めなければと思っております。
                      

一、 住んでいた瑞芳から基隆の火葬場に行くには深澳坑を経過
しなければなりません。当時、父の経営していた炭鉱はその小さな村の深澳坑にありました。父を乗せた霊柩車が村に入った時、車の中にいた私(当時女学校三年生)は外の光景を目にして涙が止まりませんでした。道路の両側に並んでいる人達は炭鉱の職員や関係者だけでなく、炭鉱夫達の家族や村の人達までもが最敬礼で父の車を見送って下さっていました。しかもその中には坑内から出たばかりと思われる、全身顔まで炭塵で真っ黒の幾人もの炭鉱夫もおりました。坑外に出て、お風呂や着替えをする時間が無いのを察して直行してくれたのでしょう。それに車がその村を通過する時間は大体でしかわからず、皆どんなに待ってくれた事かと思うと本当に感謝感激でした。


 父の日に因んで私はもう一度父に最高の敬意を表すると共に、父の面影を胸にして、父の人となりを偲びつつここに筆を走らせました。

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