恩を蒙ることと恩に感謝すること 吳淑金牧師--116号

ルカによる福音書十七章十一〜十九節

  これは昔からの伝説です。神様は二人の天使に各々袋を与え、地上に遣わしました。一人の天使は人々が神様への願いを入れるため、もう一人の天使は人々が神様への感謝を入れるために袋を持っていました。神様への願いの袋はすぐ一杯になり、重くて運べないほどになってしまいましたが、感謝の袋にはほんの少ししか入っていませんでした。天使たちは言いました。「人々は、神さまへの願いはこんなに多いのに、どうして神様への感謝はこんなに少ないのでしょう?」

 今日私たちが読んだ聖書のみ言葉は、イエス様が哀れみによってハンセン病に罹った十人の人を癒した話です。しかし主に感謝し、栄光を主に帰するために戻ってきたのは他民族のサマリヤ人一人だけでした。
主にハンセン病を癒されたこれらの人たちは、この上ない喜びに満たされたことでしょう。彼らはもう家に帰ることができ、愛する家族と会うこともできました。自由にどこへでも行くことができ、人々と握手することもできました。そして人と一緒に食卓を囲むこともできました。何故こんなことができるのでしょう?それは、イエス様のみ恵みのおかげです。当然彼らはイエス様の所へ戻って感謝を捧げるべきでした。でも、彼らは既に遠い道を歩いて祭司の所まで行きましたから、イエス様の所へ戻るとなると、さらに遠い道を歩かなけ

ればならず、それはきっとひどく疲れることでしょう。それでこのサマリヤ人が「イエス様の所へ戻って感謝を捧げましょう」と言い出すと、残りの九人のユダヤ人は、皆一様に困った顔をしました。そして彼らは「私たちは遠い道を歩いて、もうくたくたです。だからあなたが私達の代表となって、感謝を捧げて来てくれませんか。」とサマリヤ人に頼みました。サマリヤ人は仕方なく一人だけで主の所へ戻り、感謝を捧げました。

ただ一人戻って来て感謝したサマリヤ人を見て、主は「清められたのは十人ではなかったか?この他民族のほかに誰も感謝をするものはないのか、ほかの九人は何処にいるのか?」と不思議に思って尋ねました。

なぜイエス様はこのように聞かれたのでしょう?それは、神様は人間が感謝のできる人間になって欲しいからです。


(一)では私達は何のために感謝すべきかを共に考えましょう。
詩篇六十九篇三十~三十一節には、感謝は神様が喜ばれる祭りだからです、と書いてあります。神は私達の天の父であり、その子供達を愛し、彼らがさまざまに良い性質を得られるよう願っておられます。神様は私達が神のみ恵みを知り、感謝を捧げることを望んでおられます。
感謝を捧げることは神様の栄光を褒め称える最もよい方法でもあります。クリスチャンは常に祈り、神様は私達の祈りを聞いて下さり、そして、私達は神に感謝を捧げます。それゆえに心が感謝に満ち溢れ、その生き様を通して神の愛と全能を表すことができるのです。人々はそれを見て、あなたの崇め拝する神を慕い求めるようになり、このことが神の栄光を表すこと、多くの人を主に引き寄せることになるのです。

私の奉仕している女子神学院で、ある学生が次のような証をしました。彼女はキリストから癒しを受ける祈りの会に参加しました。ある姉妹は饅頭のようにはれた足が、祈りによって癒され、元どおりに治りました。またある姉妹は喉が痛み、声が出ない病が祈りによって癒され、鮮やかな声をとり戻しました。
これらの証を人に聞かせることは、神への感謝をあらわすことであり、さらに神の栄光をあらわすことなのです。

感謝はまた祝福を得る秘訣でもあります。世の中には二種類の人がいます。一つは他人の欠点ばかりを探し、恨みを持つ人で、もう一つはもっぱら感謝すべきことを探し、そして感謝する人です。神の祝福は、感謝をしない人に届けても、その人はそれが祝福であることも知らず、感謝することもできません。ですから感謝のできる人には、神の祝福が倍になって与えられるのです。

(二)では、どのように感謝するべきなのでしょうか
感謝の心は確かに良いのですが、問題は、何も感謝することがないと思っている人もいるということです。ある子供は商店が両親に渡した請求書を見ました。請求書には塩、米、薪、油などの金額が書いてありました。母親は請求書の通りにお金を払いました。その子供はそれをまねて一枚の請求書を書きました。請求書には「〇日、お母さんのいいつけで手紙を送りました、賃銀二円;☓日、家の掃除、賃銀三円;◇日、茶碗洗い、賃銀三円;弟のお守り、賃銀十円…合計××円」と書いてあり、ご飯の時、子供はその請求書を母親に渡しました。母親はそれを見て、子供が賃金を要求するなんておかしいと思いましたが、そのとおりにお金を払いました。後になって、母親も一枚の請求書を子供に渡しました。そこには「私はあなたを十年養いました。その間どれほど医療費を払い、どれほどの学費を払い、昼夜分かたず世話をし、どれほど心と力を費やし…」この請求書を見た子供はびっくりしました。しかしその下には「でも私は一文も要りません。なぜならあなたを愛しているから、あなたの為にただでやったのです。」と書いてあったのです。子供はこの請求書を見て初めて、自分が母親の過去の恩や愛に対して、全然感謝の気持ちがなかったことを知りました。

私達は神様に対しても、母親の請求書を見る前の子供のように、神様のたくさんのみ恵みを忘れて、感謝する事などないと思ってはいないでしょうか。


では皆さん、神様のみ恵みの請求書を一つ拝見しましょう。

(一)私たちを救うため、イエスキリストをお与え下さり、私たちに平安をお与え下さいました。
(二)たとえば日光、雨水、空気など自然界の全てのものを与えられています。
(三)私たちに仕事ができる体と物事を考える頭脳をお与え下さいました。
(四)私たちが必要なときにはいつでも助けて下さいます…等

神のみ恵みはそれこそ数え切れないほどあるのです。ですから喜びを失ったときには、一つずつ神様のみ恵みを思い出してみると好いでしょう。そうすれば、私たちの不満は喜びに変わり、神のみ恵みは私たちの不愉快な気持ちを、喜びと満足の心に変えて下さるでしょう。
英国ブライトンに生まれたムーン博士は、視力を失った時、神様にこう祈りました。「主よ、私はこの盲目というみ恵みを謹んで受け賜ります。どうかあなたの栄光を現すために、私を精錬して用いてください。そしてあなたがお出でになさったとき、喜びに満ち溢れることができますように。」そして、神は彼に、盲人の人のためのムーン式点字アルファベットの発明をお与えになったのです。それによって多くの盲人が神のみ言葉を読めるようになり、神の栄光を現し、人に有益な働きをなして、更に盲人が神の救いにあずかる事ができたのです。

神様が私たちを祝福され、新しい年にもみ恵みが豊かに与えられるよう願います。そしてすべての兄弟姉妹が、神様に感謝を捧げられる神の好ましい子供となり、神様に喜んでいただけるようお祈りします。

     (牧師・十二月二十八日の玉蘭荘礼拝にて)

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