投稿隨筆-恩師を偲びて(吾愛吾師)/劉碧雲-(137)

江原まつ先生は群馬県の出身、私の小学二年から四年の間の担任である。泣き虫で名の通った私が一年に入学した折、どう成ることかと周囲に懸念されたが、二人の若いやさしい教生先生に見守られ甘やかされて何とか事無きを得、無事二年生に進級と相いなった。

その初日、日本から赴任して来られた江原先生が初めて教壇に立ち国語を教える。袴姿の先生は、「二十四の瞳」の教師と同じ格好であった。二クラス合わせた故か、チビッ子で毎時も最前列の私が右後ろの座席に坐らされた。

後にチョビ鬚の木村校長、呉教頭を筆頭に、知らない先生方が一列に並んで立っている。緊張した空気がみなぎる普段と違った教室、私の心は不安でいっぱいになった。大勢の前で初めて教鞭をとる江原先生も、さすがに緊張の面持ちである。これから、この目ん玉の大きいきつそうな先生が、今までの優しい先生にとって代わると思うと、私は段々恐しくなり、じいっと見詰めている内に、先生の目ん玉がどんどん大きく成って、とうとう大声で「ワアー」と泣き出し、外に抓み出されて終った。

後程、先生にその時泣き出したたった一人の生徒が、私である事を知るや知らずや、残念ながら最後まで聞き漏らして終った。
 その頃新婚でまだ子供のなかった先生は、時々休日になると家へ来られ、母に「一寸和ちゃんをお借りします」とおっしゃっては、当時台湾でたった一軒エレべーターの有る城内の「菊元デパート」や「新公園」へ私を伴って行った。少し大きく成ってから、クラスメートと放課後カバンを背負ったまま徒歩で一、二時間も歩いてエレべーターに乗りに行ったものだ。スッーと人を乗せて上がる箱は本当に面白く珍らしかった。

 お正月には、先生はよく私に綺麗な和服を着せ「日本人の子供そっくり」と方々へつれ歩いた。珍しいお菓子をごちそうに相成るのは有り難いことだが、当時先生の宿舎に行くのは随分と苦手だった。ご主人の一郎先生も東門小学校の敎師で、温厚でやさしい目をした物静かな方だった。毎日兄弟とかけっこしたり木登りしたりの私にとって、日本式礼儀作法は窮屈この上もない。正座で足はしびれる。襖は淑やかに跪き静かに手でゆっくり開けるベきで、私流に足でけって開けてはいけない。坐ってお辞儀をする時は、深々と頭を下げ、鼻先が両手の指で作った三角形の丁度真ん中にはまるようにする。タタミの縁は踏んではいけないのでころびそうになる。お茶碗の持ち方から箸の上げ下ろしまで、先生は私を上品なレディーに仕立てるお積りらしいが、そうは簡単に問屋が卸さない。何だかんだの理由をつけては逃げ廻る。

しかし先生が「日曜日誰か畑を手伝ってくれない?」と云うと真っ先に手を挙げる。家では何事も女中まかせで縦のものも横にしない癖に、賞めてもらいたさに好い子になりたがる。トマトやほうれん草、ネギ等を植え、友逹と二人よろよろと重い肥桶を担いで肥料をまく。甘くもおいしくもないトマトは「臭柿」と呼ばれ、それまで台湾人は誰も食べない。或る日お腹が空いて堪らなくなって、自分の植えたまだ青いトマトをもいで食べたのが、わたしにとって生れて初めての経験であった。

毎学期家庭訪問に行く度に、先生は私を通訳として同伴する。七才から七十才まで通訳とは、これも何かの因果だろう。田んぼのまん中の農家をいちいち訪ねるのは大変な苦労である。今でこそ車がひっきりなしの南京東路など、だだっ広い川で先生と二人おっかなびっくりで丸木橋を渡るのである。当時、既に配給制度で食物を貯えている農家は鼻息が荒い。立派な銘仙の和服を米に換えたくても喜ばない。木棉のが欲しいのだ。銘仙を着て畑仕事する訳にはいかない。殆ど帰りには当時宝物の卵やお米を先生にプレゼントする。

或る時、先生に連れられて当時新公園内にある全島でたった一軒の「台湾放送局」で独唱したことがあった。その帰り先生と公園のべンチに腰掛け満開の蓮の花を眺めていた。先生は「もっとピアノのおけいこをして上手くなって、和子の伴奏をして上げるからね。」頭を撫でながら私に言った。黙って頷きながら心の中で「先生は何でも絶対に上手だと思っていたのに、先生でもまだおけいこをするんだなあ。」と内心不思議で堪らなかった。

当時、五年生からは受験準備の為、皆男の教師が担任となる慣わしだったので、私達も口数の少ない大男の植田先生に代わった。クラスで誰かが間違いを犯すと、皆床に正座して力いっぱいビンタを張られた。ロ惜しいので歯を食いしばって泣かないで、先生の顔を睨みつけていると、先生曰く「皆和子を見習いなさい。自分で何も悪い事をしていないからメソメソ泣かない!」悪い事をしていないと分っているのなら、少し軽く手加減してもよさそうなものを、と益々ロ惜しい。

受験生は、先生の宿舍で毎晩補習を受ける。奧さんがおやつやお茶を出して下さる。今にして思えば子供二人を抱えて生活は楽でなかった様だ。しかし補習は無料で、入試にパスした人だけ(一学級一、二人)清酒一本にリボンを付けてお礼に下げてゆく。

戦後、送還前の日本人が大勢道端にござを敷き、家財道具を並べて売った。第三高女の藤谷老校長は自らリヤカーを引いて醤油を売り、教え子達が競って買っていた。当時中一の私は同窓生二、三人と毎日江原先生の市民住宅に通い、荷造りのお手伝いをした。純金をうす紙状に延したものを布団の中に縫い隠す。一郎先生は「これからよく勉強するように...」と自分の机を、記念にと私にプレゼントして下さった。 とうとう送還準備で集合する日、女生徒三人でリヤカーに荷物を載せ、仮收容舎の「幸小学校」に向う。荷物を教室に積み、さっさと手を振って帰りかけようとすると「和子、もう帰るの?」と先生は涙をふきながら追っかけて來る。自分の故郷へ帰るのに何故悲しむのだろうと、キョトンと先生の顔を見つめる。日頃『おませ』といわれ自分でも何でも分っている積りの私は、骨を埋める積りの台湾から裸一貫で追い出される先生の不安と悲しみを推察することが出来なかった。「くれぐれも劉先生に...お父様によろしくね。」と先生は校門まで送って下さり、なごり惜しそうに涙ぐみながらいつまでも手を振っていた。

時は去り瞬く間に三十年が経った。日本語はタブーで、雜誌も本も沒收され勿論文通も許されない。時々母と先生の話になり、何隻も引き上げ船が魚雷で沈められたので、先生もだめかなと思った。

台湾人の李登輝氏が總統に成り、文通が可能と成って、先生から昔の住所に初めて手紙が届いた時は大変嬉しかった。それからは頻繁に文通が交され、私は旅行する度にアメリカ各地は無論のこと、パリ、ナポリ、ローマ、スイス、シドニー、タイ、バリ島等旅先より、先ず絵ハガキを送り、帰国してから必ず長い報告の手紙を添えてたくさん写真を送った。九十歳でお亡くなりになるまで交流は続けられた。長女の純子さんの話では、先生はそれをとても楽しみにして、よく書道の生徒達に「台湾の教え子からよ!」と見せびらかしていたそうだ。先生もだんだん薄れる視力の中で、紙に線を引き拡大鏡を使い丁寧に筆で達筆な返事を怠らなかった。この間たった一度だけ、長男の洋一さん同伴で懐かしい台湾に来られた。私がおんぶした洋ちゃんは、医者となり院長先生である。私は先生を案内して、今は『中正国小」と名を改めた小学校を訪れる。女性の校長は親切にも、倉庫の奥から戦前江原先生が筆で書いた学期報告書を見つけ出し、コピーして先生に持ち帰らせた。校門も空襲に遇い、そこで何人も死んだのに、よく書類が残ったものだ。その後、昔住んだ所をも訪ねたが、高層ビルが建ちならび、何処かも定かではない。すべては浦島太郎そっくりであった。

又、何年も経った現在も、折にふれては文箱から色褪せた手紙を取り出して読み返し、懐しく先生の面影を偲ぶ今日この頃である。                                             

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