劉菊野女史を偲んで-劉菊野さんの思い出/大川記代子-(142)

一九九五年六月、私が玉蘭荘を去った後、菊野さんは玉蘭荘の様子、できごと、折々に催されるイベントや参加している人達の様子をいつも電話や手紙で伝えて下さいました。お手紙には時々玉蘭荘の月ごとの活動計画表も入っており、私は玉蘭荘をいつも身近に感じることができました。彼女からのニュースは昨秋彼女がベッドに臥すようになり、電話で話すことができなくなるまで続きました。堀田久子先生や私が今日まで、玉蘭荘にうれしい気持ちで繋がることができるのは、菊野さんのこの愛のかけ橋のわざで関わり続けて下さったことによります。

菊野さんが親しかった袁呂敏さん(故人)は、菊野さんはじめ十数人の方たちと共に玉蘭荘のボランティア養成講座を全課程受講修了したあと、自由に外出できないハンディある身で、「できることは何か?」と考えて始めたのがテープによるお訪ね活動でした。友の安否を尋ね、近況を知らせ、暗記している聖書の箇所や賛美歌を歌って吹き込み、繋がりある多くの友人たちを終生励まし続けました。菊野さんのお電話活動はその袁呂敏さんの友と関わり続ける生き方に酷似していました。毎朝菊野さんと一緒に電話で歌を歌った人、病気になった時菊野さんからの電話で慰めを得た人達がたくさんおられることと思います。

菊野さんが懐かしい思い出としてしばしば語ったことの一つは、お隣に住む馬千鶴子さん(故人)が、玉蘭荘で彼女の得意な習字を生かしたボランティアが出来るように手助けしつつ馬さんと一緒に活動したことでした。

「玉蘭荘こころの歌」が次々と作られていきましたが、当初の歌のテキストは、大きなカレンダーの裏に墨でかいた歌詞を見ながら歌っていました。菊野さんは活動日ではない日に馬さんとやってきて作業をします。墨と筆を準備し馬さんが筆で正確に書けるように、菊野さんはそばにつきっきりでたすけました。「じゃ次、この行ね」と馬さんは菊野さんが示す箇所をみて、一行ずつ書き写していきます。馬さんの認知症の病状が進むにつれ、やがて「ラ」「バ」「ウ」「ル」などと言うように菊野さんが示した字を見て、一文字ずつしか書き写せなくなっても菊野さんは終始辛抱強く、いつも同じようににこにこと馬さんを導き、どんなにゆっくりの進み具合でも自ら楽しんで、一緒に一曲一曲仕上げていきました。馬さんは菊野さんの介添えで最後まで玉蘭荘のために自身でできることを通して携わり続けました。玉蘭荘の活動で公園に散歩に出かける時には、このカレンダーを持参し、皆で歌詞を見ながら大きな声で歌ったことも菊野さんには楽しい思い出でした。
        
菊野さんは玉蘭荘に参加し始めた時は、ご主人を見送ったあとでしたが、長年のご主人の看病で重い自律神経失調症になっていました。玉蘭荘に短時間参加するのにも体力がなく、自宅は近くでしたがタクシーで通っていました。皆さんとの交わりによって、またピアノ伴奏を引き受けたりするうちに徐々に深い疲れから回復していくことができました。毎朝玉蘭荘で聖書のお話に触れ、やがて罪とは何かと言う気づきを与えられ、玉蘭荘で洗礼を受けるまでに導かれました。菊野さんは玉蘭荘を愛し、玉蘭荘によってほんとうに幸福な日々をおくることができました。高齢期を幸福にすごすことによって健やかに長寿を全うすることがゆるされました。

人生の大先輩、劉菊野さんに出会えたこと、玉蘭荘で彼女と共に過ごせた三年間、そしてその後二十年近くの交わりが与えられた私もほんとうに幸福者です。彼女の愛によって玉蘭荘がいつも身近にあったことを心から喜んでいます。今、彼女と共に、今日までの玉蘭荘のいとなみを守り続けて下さってきた神様に深い感謝を捧げます。              
  (元総幹事)
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