先祖を偲ぶ   蘇慶輝 --111号

私達台湾人は、孔子の教えの影響を受け、とても「飲水思源、慎終追遠(物事の根源を忘れない、先祖や親を鄭重に祀る)」を実践する民族である。家に先祖の位牌を設け、香を焚いたり、供え物を並べたり、礼拝をしたりします。キリスト教が台湾に入ってくると、「主なる神をおいてほかに神があってはならない。またいかなる像をも拝んではならない。」という戒律で先祖の位牌を取り除いてしまい、香をあげたり供え物をしたりしなくなった。それで人々の誤解を受け、「キリスト教を信じたら、死んでも誰も悲しまない。キリスト教は先祖を拝まない、不孝な宗教であり、先祖に背き、忘れてしまった人達だ。」と言われ、福音が台湾人の心になかなか届かなかった。


 キリスト教が台湾に入ってきた四百年前のオランダ時代を除いて、近代の英国宣教師マクスウェル医師とカナダのマカイ博士が台湾に福音を述べ伝え、教会を設立してからもう百五十年近くなる。しかしクリスチャンは未だ僅か台湾全人口の三%にすぎず、カソリックを合わせても五%にしかならない。どうして台湾人にこういう根深い誤解を与えたのだろうか。


 実際キリスト教は最も先人を尊重し、先祖を敬う宗教である。出エジプト記の十三:十九に「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが『髪は必ずあなた達を顧みられる。


その時、私の骨をここから一緒に携えて上がるように。』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。」とある。創世記の最後の章、第五十章の終りにヨセフの遺言が書いてある。必ず私の骨をここから一緒に携えて上がるように、とある。そしてモーセが神のいいつけによりイスラエルをエジプトより救い出す時、先祖ヨセフの遺言を忘れないで、四百年後、その遺骨をエジプトより携え出したのだ。これでわかるが、聖書は先祖を重んじ敬い、先祖の教えの通り行えと教えている。


 聖書を開けると、いたるところに系図を見る。聖書の第一巻創世記だけでも系譜や子孫の名簿が九つもある。新約聖書の第一ページ、マタイによる福音書の第一章に、イエスキリストの系図がある。ルカによる福音書の第三章にもイエスの系図がある。マタイはイスラエルの先祖であるアブラハムから下って、イエス・キリストまで書いている。ルカはイエスから登ってダビデ、そしてまた登ってアブラハム、また登ってアダムまで行っている。アダムは人類の始祖である。系図の最後の言葉は「そして神に至る」とある。マタイはユダヤ人に見せる系図であって、ユダヤ人の期待しているメシヤはイエス・キリストであることを明記している。ルカは異邦人の全人類に読ませるもので、イエスこそ全人類の救い主であると言っているのだ。

 今日私たちの中に自分の家族の系図を持っている人は何人あるのだろうか。これでユダヤ人はまことに先祖を偲び、敬う民族であることがわかる。そして、聖書は私達に先祖を敬えと教えていることがわかる。確かにユダヤ人は祭司などの公職に着く時、先ずその人の系図を調べる。その系図の中に犯罪者や名を落としたものがあれば、公職に着く資格を失う。最も顕著な例として、ヘロデ王を挙げよう。彼の系図の中にはカナン人の名が見出される。故にユダヤ人はヘロデ王を見下し、ヘロデ王は自分の系図を破り捨てたのだ。キリスト教はユダヤ人と同じく、非常に先人先祖を敬い重んじる宗教である。ただ私達クリスチャンの先祖を偲ぶ方法が、一般未信者の人達と違うのだ。


先祖を偲ぶと言うのは、私達の次の代の人々、子孫達に先祖先人のよい行いを認識させ、そのよい行いを見習うことである。


聖書は繰り返し私達に父母を敬えと教えている。十戒のはじめの四戒は人と神との関係を表し、後の六戒は人と人との関係を言っている。その人と人との関係の第一戒、すなわち一番に「あなたの父母を敬え」とある。パウロは「これは約束を伴う最初の掟です。(エフェソ六:三)」と言っている。


台湾語の諺に「在生食一粒豆、較贏死後孝豚(死んでから豪華なお供えをするよりも、生きているうちに豆一粒を差し上げる方がよい)」とあるが、確かにその通りである。父母がまだ身近に居られる時、まだみる事ができるうちに、進んで孝行すべきだ。


誉れを先祖に返し、先祖の名を汚さないことを考えると共に、私達はいかに子孫に名を残し、子孫に偲ばれる栄神益人たる人になるか考えるべきだ。もし私達に何か間違った行いがあるときには、子孫の禍になることをわきまえるべきである。ダビデは神に油を注がれて王になった。しかし彼は姦淫を行って罪を犯した。聖なる神は彼に「それゆえ剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう」と言った。ダビデの子孫は権力争いと戦争が絶え間なく続き、悲惨な目に遭っている。


 最近のニュースでは、暴力的な子供は暴力的な親から出ることに気付く。父母の行いや言葉遣いに、子供達は注目している。また諺に「瓢箪は瓢箪より、糸瓜は糸瓜より生まれる(かえるの子はかえる)」とあるように、そのような父母より生まれた子供は、同じような大人に育つ。


 最後に、追思礼拝には「飲水思源至根源、慎終追遠到永遠」とある如く、ルカの系図を遡った最後に「アダムは神の子である」と神まで遡っている。私達はイエス.キリストの」救いにより、真に神の子とせられたのだ。神の子として、如何にして神に栄光を送り、神を重要な位置に置くか、いつも考えるべきだ。

(牧師・四月二日の礼拝より)

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