特集 母の日に寄せて-思い出の数々/ 江水和 -(143)

思い出の数々(届かぬ遥かな彼方に思いを寄せて)
 
一九九九年の三月二十八日、末子が板橋の県政府福利餐廳で結婚式を挙げました。事前の準備が良かったのですべてが順調に進行しました。

友人から褒められ、そして「君はもう責任を果たした」と言われて実に感無量でした。若しもこの場に母が居りましたら・・・と。
憶えば母は八十二歳の生涯を通して肉体、精神ともに艱難辛苦の茨の道を歩み越えて来た。この意気地無き私には到底辛抱出来なかったと思います。

母の青春時代はあの日本統治期でした。皆様も良く御存知の物資不足時代で子供に腹一杯食わせるにはそれ相当の苦労を要しました。母は私と姉を夏休みには里の兄貴の家に栄養補給に行かせました。今と違って昔の子供には皆それなりに仕事があります。それを夏休みにして下さった母の真意は成長期の我が子に充分食べさせたい心持ちじゃなかったかと私は今でもそう思っています。

時局は支那事変から大東亜戦争へと発展しました。物資は益々欠乏し、生活はギリギリ迄追い詰められ、その時に私は海軍特別志願兵に取られました。母の精神的打撃は非常に大きかったと思います。漸く成長した我が子が兵隊に取られて戦場に行く・・・。
私は私で母の気持も又何も考えず、只皆に混じって勉強出来るとの、天真爛漫な単純な考えでおりました。

山に育った乳臭い未熟な数え年十七歳の子供みたいな身心共に未熟な私があの二千人の大集団に混じっての軍隊生活、あの厳しい軍規、老兵の鬱憤晴らし、だけど人間の集団は何処にいっても皆同じく現実な集団ばかりです。要領だけですよ。

今憶い出してもゾッとする様な事も沢山ありました。一生懸命努力もしました。けれど涙も沢山流れました。口惜し涙、感動の涙、訳の分らない数々の涙・・・でも今となって当時の苦労経験は私の人生に於いてはプラスだったと思います。だが当時の母の心境はどうだったでしょう?

そうしてやっと終戦を迎え私も無事復員、喜びも束の間、無政府状態のような混乱社会に陥り、物価はうなぎ登りに高騰、治安は日々悪く、悪性通貨膨張で前途は全くの暗闇でした。その終戦後の混乱にも少しずつ慣れはじめたが、それに続く息子の婚姻問題。解決が着いたのは病気で倒れる一年一寸前でした。息子の婚姻事情で悩み続ける事三十数年間、やっとと思ったらもう人生の最終駅は目の前・・・。

 病気で臨終迄は約一年半でしたが、その間私達兄弟姉妹に出来る範囲内での事は充分では無いが尽力はしたと思っています。姉は何時も旬の新鮮な果物や、珍しい食物をバスの便を利用して顔見知りの人に頼んで送って来る、それを手にして「これは高いだろ?幾らするのかね」と聞く、私は先に食べてから聞きなさい、値段が分ればオイシさがなくなると答える。その食べてる表情は勿体ない、満足感、等と。私には良く表現出来ないのが残念ですけれどまあそう言う様な表情でした。

 又時々四方山話をします。母は人間が逝去したら獅公をやって貰うのが一番の願望と話します。私は日本観光と獅公はどちらが良いかと聞くと、笑顔で勿論日本観光が良いと楽しく答えるのでした。

 一九八二年、七十九歳の年に姉は姉婿の承諾を得て日本観光に連れて行きました。若しも姉婿が年寄りだとか又は何とか言うて拒絶してもおかしくない年齢でした。姉婿の承諾であの頃はまだ珍しかった海外旅行が出来て母にも楽しい思い出が出来た事を、今でも深く姉婿に感謝しています。

 病中であった一年六個月間色々とより多く快楽的な話題に触れる様にと心掛けました。頭がハッキリしていましたので介護も楽でした。物事を現実に比喩しては楽しくさせました。生涯でこの一年半が最も安楽で心になんらの負担なく過ごした様だと私はそう感じます。

 貧乏暮しにも意気地が要る、経済景気がまだ良くなかったあの民国四十年代の中ば頃、ある人が肉屋から帳付けばかりで長い間お金を払わないからと、肉屋が金取りの催促に来た。だがその人は「今、金は無い。あれば返す」の返答ばかりで肉屋はついに怒って悪言でののしった。その場に居た私は、「金がない、肉は食べたい。あんな様にもなりたくない。」と変な心境になりました。長い事肉の味を忘れた私の腹の中の大腸小腸が頻りに私に話かけるのです。「君は肉屋から一斤や二斤帳付けしても拒絶されない歓迎するよ。それに後何日かしたら給料日じゃないか・・・。さあ早く行け行け。さもなければ我等は喧嘩するよ。」と煽動する様でした。
 歯をかみしめて我慢するか、大小腸の呼びかけに応ずるか、暫く思考するが、結果は現実に負け妥協して一斤余り帳付けして帰りました。母は豚肉をみて笑顔でお前何処から金が入ったのかと尋ねました。私は借金取りの一幕を話して、私はもう耐えられない、あの人はあれまでして肉を食べている、我等にはまだ少し余裕がある、ちょっと栄養補給に借金したと話したら、すぐに顔を変えて「食 欲去死」食べたかったらツバを呑めと怒鳴られました。良く言い表す事が出来ませんが、母はツバを呑んでも、人に頭を下げるな・・・と常に私達に身を以って教えて下さいました。

 今、母が幼少期から手塩にかけて育てた私達子供達と孫達は人として本分を守って社会でそれぞれの職場に就いています。  
母への感謝と追慕を込めて。

附記:この手記は末子の結婚後、私が母の実家の親戚達を招請した時の手紙です。
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