私の半生記  呂克明--111号

試験を受けて、台北二中に転入しました。台北では親戚の家に下宿をしたのですが、遊んでばかりで勉強がおそろかになり、高等部への昇級試験に落ちてしまいました。それで、当時郷里の八徳郷で唯一のキリスト教徒だった劉長寿さんの薦めで、淡江中学に入学しました。淡江中学はミッションスクールで、そこで私はキリスト教と出合ったのです。淡江中学での三年間、牧師の説教を聞き、賛美歌を歌い、マカイ博士の息子夫婦の講演を聞いたこともありました。そして宣教師と共に寄宿生活を送ったお陰で、私のキリスト教に対する信仰心は深まり、先生の洗礼式にも招待されました。キリスト教は先祖をお参りしないと言って、父は私の信仰に反対しましたが、私が三年生の時に模範生に選ばれ、賞を貰った時にはとても喜んでくれました。


 私は数学がとても苦手だったので、高校卒業後は進学をあきらめて農会(農協)に就職しました。農会では最終的に総務部長にまで昇進しましたが、まだ若かったので人間関係がうまくいかないこともあり、また農繁期には残業が続いてあまりにも忙しかったため、見かねた父が親戚の営む洋傘会社を紹介してくれ、転職することにしました。ここでは会計助手からの出発になりましたが、何しろ学生時代から苦手な分野でしたから、すいぶん苦労しました。しかしこの会社では多くのことを学びました。政府主催の研修などに参加して、珠算もできるようになり、後の生活でも大いに役に立ちました。


 私は農会にいる間に結婚して家庭を持ち、また兵役も終え、長男も誕生していましたが、その後二年おきに四男まで誕生し、家計が徐々に苦しくなってきていました。その頃ちょうど他の親戚が紡績工場を始めることになったので、私は思いきって洋傘工場を辞め、紡績工場へ移ることにしました。おりしも台湾の紡績業は好景気で、工場の経営もすぐに軌道に乗りました。しかし仕事の要求が多い上に、利益はほとんど社長が独り占めをしているような状態だったので、楽ではありませんでした。ただ、設備のほとんどを日本から導入していたため、私は戦後でも日本語を使うチャンスに恵まれました。日本へ研修に行き、ついでに大阪万博を見物したこともありました。この頃は知り合いから引き抜きや新しい合資事業の誘いを受けることもしばしばありましたが、社長への義理があったため、それらを皆断り続けていました。


 民国四十六(一九七五)年、妻が病に倒れました。思いもよらず、私は急に仕事、看病、家事の全てを一人で背負い込む事になってしまいました。しかし体力的にも経済的にも、これを続けていくのは困難でした。私は仕方なく紡績工場を辞め自分で企業する事にしました。社長は私を引き止め、妻の医療費の肩代わりまで申し出てくれたのですが、私は先のことを考え、やはり桃園市で下請工場を始める事にしました。はじめの半年はなかなか利益が出ず苦労しましたが、やがて経営が軌道に乗り出し、利益が出始めた頃、皮肉なことに妻は帰らぬ人となってしまいました。


 私は翌年再婚し、娘を一人もうけました。やがて友人に誘われて共同で新しい紡績工場を始めましたが、この頃台湾の紡績業はアメリカの影響を大きく受け、また中国や東南アジア諸国との競争も激しくなっていたため、事業はなかなかうまくいかず、私は遂にストレスから体を壊してしまいました。パーキンソン病に罹ってしまったのです。半年ほど療養したあと、この病気は治療に大変長い時間がかかることが分り、私は仕事をやめて治療に専念することにしました。はじめは投薬治療を続けていましたが、体の震えは日増しにひどくなっていきました。そこで親戚の友人である劉霑妹看護師の紹介で、彼女が八年間勤めていたという東京の楢林病院で手術を受ける事にしました。手術によって長い間苦しんだ体の震えはずいぶん良くなり、台湾に戻ってからは、また彼女の紹介で玉蘭荘の活動に参加するようになったのです。


毎週月曜日のみ、桃園駅から電車で台北駅へ行き、そこからタクシーで、玉蘭荘に通います。午前中は必ず礼拝の時間があり、聖書を学び信仰を深めることが出来ます。ある年のピクニックには、息子の経営する幼稚園へ皆さんをお招きして、園児と楽しく過ごして頂いたこともありました。体調は医師と始終連携をとりつつ注意して生活して居ますが、やはり加齢と共に身体機能も低下してきましたので、インドネシア人のヘルパーを雇って玉蘭荘にも同行してもらい、妻の車で送迎してもらうようになりました。そうして今日まで続けていかれたのも、神様の愛、励ましによるものと感謝しております。また、玉蘭荘では保健師の今井さん、楊王満牧師夫人に常に励まして頂き大変感謝しています。特に楊王満牧師夫人(楊啓寿牧師)のお導きで桃園県八徳市の台湾基督長老教会の礼拝に毎週通うようになり、二〇〇三年一月十九日には受洗の恵みを授かりました。現在も、体調の許す限り礼拝を守っています。

私の大好きな讃美歌に「明日を守られるイエス様」という歌があります。二〇〇一年十二月の玉蘭荘でのクリスマス会で、少し震える手をヘルパーに支えてもらい、マイクを持って一番から三番まで讃美させていただきました。当日遠いアメリカから九年ぶりに帰って来られた多田久子先生も感激してくださり、私も感謝の恵みに満たされました。


二年ほど前から徐々に歩行も遅くなり、玉蘭荘の活動にも参加できなくなりつつありますが、皆様の愛と激励を受け、慰めを頂き、また家族の支えを得て、神は何時も共にいてくださることを信じ、喜びを感じ、祈り感謝する日々を送っております。


(会員  家族・友人による口述筆記)

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