私の父・洪雅沼/洪以臻-(146)

父の事を思い出すと、色々な気持ちが呼び起こされます。

 私が小学校の四~五年生の頃だったと思います。ある日父が台北の出張から帰って来て、母と私を呼ぶと、慎重な手つきでハーモニカを取り出したのです。それは有名な胡蝶というメーカーのハーモニカでした。父は私へのお土産だと言い、すぐに私に「気に入ったか?」と聞きましたが、私は「吹けないから嬉しくない。」とはっきり言ってしまいました。父ががっかりしているのを感じたけれど、私達はそれ以上会話を交わすこともなく、そしてそれは父からの最初で最後のプレゼントになってしまいました。数年前、父のカバンの中にハーモニカが入っているのを見かけました。父はそれを玉蘭荘でも何度か演奏したことがありましたが、どうやらそれはあの時のハーモニカだったようです。

 やがて私は台中の高校に入学し、寮生活を始めました。学校の規則で、生徒は毎晩教室で自習をすることになっていたのですが、学期末の近づいたある晩、教官が私に来客を告げたので行ってみると、父が届け物に来てくれたのでした。口下手な私は驚いた様子を見せることもできず、挨拶もそこそこに父の手から荷物を受け取るとすぐに教室に戻ってしまいました。父が遠くから来てくれたにもかかわらず、学校の規則通りに早く教室に戻らなければ、と焦ってしまったのです。父は当時北部の金山にある原子力発電所に勤めており、その晩父がどうやって帰って行ったのか、私には知るよしもありませんでした。

 高校卒業後、私は淡水の淡江大学に進学しました。大学は父の職場からは割と近いところにありましたが、在学中の四年間、私が父を訪ねたことはたった一度しかありませんでした。一年生の時、撮影技術の事で教えてほしいことがあって宿舎を訪ねていったのです。得意分野だったので、父は事細かに教えてくれましたが、父と私がこんなふうに親密なやり取りをするのは、本当に珍しいことでした。それからしばらくしてクリスマスが近づき、私は父にクリスマスカードを送ったのですが、なんと父はわざわざ淡水の私の下宿先までやって来て、「家族にはカードなんて送らなくていい。」と言ったのです。それ以降私も父にカードを送ることはありませんでした。
 私は大学卒業後、学校で一年ほど働きましたが、その後留学することを決めました。当時家庭はそれほど余裕があるわけでもなかったのですが、父は私の計画を知ると、こっそり母に私の留学のためにお金を工面してやるように言いつけたと、後になって知りました。留学を無事に終えて、今度は結婚することになると、父はまた母に、ひとつの家庭を支えていくことは大変なことなのだから、私から小遣いを受け取ったりしてはいけないと言ったそうです。こんなに不器用ながらも深い父の愛に、当時の私は全く気付かなかったのです。

 私と父の関係は、このようにいつも一定の距離を置いて続いていました。先に紹介した私の思い出のように、父は私達子供を深く愛し、私たちの望みを知ってはいましたが、優しい言葉を口に出すことはありませんでした。例えば私が仕事で疲れていて、ソファで転寝していると、生前の母はこっそり毛布を掛けてくれたものでしたが、父はいつも「疲れたなら早く部屋に戻って寝なさい!」と叩き起こすのです。勿論これも私の事を思ってのことだとはわかっているのですが。

 三~四年前、私がカナダから帰国したのと同じ頃、父の体も少しずつ悪くなっていきました。出かけるときにも付き添いが必要になり、私達兄弟姉妹はこの頃になってやっと父と親密な関係を築くようになりました。父は毎日三回散歩に行くほか、毎週月曜日と金曜日の玉蘭荘の活動をことのほか楽しみにしていたので、私たち兄弟も交代で付き添って出かけました。玉蘭荘は父の最も好きな場所で、父は毎回玉蘭荘からの帰り道に「活動予定表」を取り出して眺め、次の活動日の時間と内容を確認するのを忘れませんでした。家でも毎日カレンダーを眺め、次の活動日まであと三日、あと二日と指折り数えていました。そして前日になると「阿臻(私の呼び名)、明日はどこに行くか知ってるか?」と聞くのです。私が「玉蘭荘に行くんだろう?」と答えると満足げに財布の準備を始め、「お前の分も弁当を注文しなくちゃな。」と言うのです。その嬉しそうな様子に、私達まで嬉しく感じたものでした。

 父が十年以上もお世話になり、玉蘭荘には感謝の気持ちでいっぱいです。そして会員の皆さんがいろいろ手を貸して下さり、父のよき仲間でいてくださったこと、お礼申し上げます。このすべてが神様のみ恵みであり、ご加護であったと思います。

 天に召された愛する父を偲んで。

              (会員・洪雅沼長男)
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