「母」  陳慧如 --112号

 一、メソジスト派を初めた人といわれるジョン・ウェスレーの母スナザンは「祈りの人」であった。ウェスレーはその母スザンナについて語る時には、いつも「私が妻を迎えるときは母のような人を選びたい」といった。このスザンナについて、イギリスの有名な作家アイザック・テーラーは「スザンナは実に宗教的また道徳的の意味に於いて、メソジスト派の母と言うべき人であった。その勇気と言い、その高尚な主義といい、その自立制の精神と言い、その温かな感情といい、みな、悉くその子の品格と行為に反映していた」ということである。

スザンナ(一六六九-一七四二)は英国の牧師(ドクトル•サミュエル・アンネスレー)の娘で、ギリシャ語、フランス語、ラテン語、論理学、形而上学を学び、二十歳の時、牧師のサミュエル・ウェスレーと結婚した。スザンナ自身も多くの兄弟姉妹を持っていたが、彼女も多くの子宝を神から与えられた。メソジスト派の創始者となったジョンは十五番目の子であり、賛美歌の作者として有名なチャールスは十八番目の子であった。家が貧しく子供は多しで、スザンナの苦労は言葉を持って述べるまでも無い。しかし彼女は、そのために家庭の秩序を乱してしまうような事は決してなかった。


スザンナはまた子供が満五歳になると、聖書の創世記、詩篇、箴言等の智慧文学の文字や言葉を教え始め、毎晩一人一人に神の話をすることにした。即ち、月曜にモーリー、火曜にヘチー、水曜にナンシー、木曜にジョン、金曜にパティー、土曜にはチャールス、そして日曜にはエミリー及びサキーと。このときジョンは六歳であったが、木曜の晩のことが終生忘れる事が出来ないものであったと見え、後に母に書いた手紙の中においても、この事について触れたものがある。ジョン、チャールス兄弟たちはこの母の祈りに支えられて偉大なる伝道者、有名な宗教音楽家に成り得たのである。



二、寝て居ても うちわの動く 親ごころ

   

この川柳は朝日新聞の「天声人語」に載ってあったもので、感銘深く心に残り、忘れることが出来ません。



三、"MOTHER" 母親

Million    

Old

Tears

Heart

Eyes

Right


 母親(MOTHER)のこの字は私にとっては全世界を意味する。

この文章(詩歌)はアメリカのケンタッキー州のある土産店にあったものです。第十六代大統領リンカーンが母の愛を偲んで詠んだものと思われます。



四、「ふるさと」母を憶う

日本産経新聞 朝の詩より 深瀬和雄作

       

ふるさとは 瀬戸の静かな海の町

    昔まだげんきだった 母が住むふるさとは

    夜汽車を乗りつぎ はるばると遠かった

    けれど近かった


時が逝き ジェット機が飛び 新幹線が走り

ふるさとはいま 何時間も何倍も 近くなったけれど

母の居ないふるさとは 何時間も何倍も 遠くなった



五、母のこころ

何年か前に読んだ文章ですが心に残り、忘れる事が出来ません。

外国に住んでいた日本の有名な作家。名前は忘れましたが、休暇で日本の「ふるさとの母」のもとへ帰ってきました。長年海外で活躍し、久し振りに母のもとに戻ってこられたので、その夜遅くまで母と二人で色んなことを語り合いました。各国の政治、経済、社会、文化、外国の生活や国際情勢など・・・。夜半、静かなその時、床につく前、母は「長い旅でだいぶ疲れたでしょう。汚れたハンカチ、下着などありましたら、お出しなさい。ついでに一緒に洗いますから。」と、この母の言葉に彼女は深く心を打たれました。

彼女はもう七十歳を過ぎた婦人、彼女の母は九十歳を過ぎた老母です。この母の心、即ちいたわり、やさしさ,思いやりに満ち溢れた心は、誰でも体験なさった事と思います。



六、母の祈り

一九六四年五月二十三日 私は母の祈り(神の恵み、憐れみ)によって、生かされ、無事に安産することが出来ました。三十二歳で結婚し、晩婚の産婦はたいてい難産が多いといわれていましたので、母は出産日のひと月前から私たちの牧会していた花蓮港の美倫教会に来ていました。出産当日お向かいの病院へ行き陣痛何回も繰り返してもなかなか赤ちゃんが出て来ませんでした。

母は助産士でしたので、その危険厳重さを知り何回も牧師館に戻っては必死に涙を流しながら祈っていました。主人は牧師館に戻ってきて母の有様を見た時初めてその重大さ、危険さを知り、慌てだしました。今まではただ子供の出産、父親になる事の喜びで胸がいっぱいでした、と。この事は、後程主人から聞いたことで、私は母の愛、母の祈りによって無事出産できた事に深く感謝し、今日になっても 尚更母の祈りを忘れることが出来ません。

    私たちは誰でも誕生日を喜び祝います。私は一言付け加えたいと思います。それは、私たちの誕生日は即ち私たちを生んでくださった「母親の受難日」であった、と言うことを忘れてはなりません。だから、もっと、もっと母親に孝行を尽くさなければならないと思います。

          (牧師  六月十五日の礼拝より)

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