楊國祥兄弟の生涯への回顧/濟南長老教會 長老 林良信-(147)

私は約十五年前に、所属の濟南教会で國祥兄弟に出会いました。彼は言葉数の少ない、物静かな方です。日曜日の礼拝に、彼が朝早くから教会の一番前の席に着いて、祈っておられる様子が印象的でした。彼はバイブルクラスに熱心に通い、居眠りせず、欠席せず、真面目なクリスチャンでした。その後、故許石枝長老と張明德さんの紹介で、玉蘭荘の活動に参加。玉蘭荘は彼の生活の中心になりました。晩年、歩行が困難になり、杖を持って教会に通う彼の困難な様子を見て、私は心配で、車で御自宅迄何回かお送りしましたが、彼は必ず御自宅の一歩手前で降ります。彼のヨチヨチと移動されて居られる後ろ姿は、真理を追い求めている姿です。私は深い感動を覚えました。

 何回か御自宅への訪問を申し込みましたが、彼は恥ずかしい表情で、断りました。理由は家族が一貫道の信徒で、家に仏壇が設けてあって、不都合とのことです。國祥兄弟は斗六の出身です。父親は田舎で児童の啓蒙教育に従事して、地方の尊敬を得て、一貫道へ入信、生涯一貫道の信仰を守った方です。國祥兄弟は優秀な成績で、斗六の小学校を卒業。当時、進学出来る中学が少なく、小学校の担任の日本人の先生が御自分の岡山県の母校への進学を世話しました。当時、貧乏な農村家庭が子弟を日本へ留学させることは天に昇るほど困難でした。岡山の中学に在学中、彼は一日一食しか食べることが出来ず、言語に絶する苦しみを体験されました。親元を離れた異国で、毎日ひもじい思いをした生活は彼の人間形成に大きな影響を与えた筈です。彼は中学を卒業後、早稲田大学の専門部の機械科へ入学。後日の台北市長の高玉樹氏は彼の同窓でした。早稲田の専門部は大学ではないですが、彼は大学以上、充実した学力を身に付けました。早稲田を卒業後、三菱電機の名古屋事業所へ入社。名古屋は日本の軍需産業の要衝のため、戦時中は酷い爆撃を受けました。國祥兄弟は九死に一生を得て、戦後無事台湾へ戻りました。

台湾へ戻った二十代からの五十年間、國祥兄弟は三十以上の重要な職務を受持ちました。飲料工場の建設、運営、土木工事の設計、大量工業用水の遠距離の配送設計、ダムの水門の設計と施工、大都市の水道の設計、国際空港の焼却設備の設計、施工、運営等、全て民生、並びに人命に係わる重要な公共工事です。七十歳以降は、重要工事の設計図面の最終チェックを十年以上継続されました。國祥兄弟の実力と、業界から得た信頼を伺うことが出来ます。

 私は國祥兄弟と長年接触して来ましたが、彼が如何にして一貫道の家庭背景から、福音への大転換が出来たかは、謎でした。彼が召された後、葬儀の打ち合わせで、私は本年一月十七日に、初めて彼の家庭を訪れました。謎が解けました。御自宅は五階建ての四階の質素なアパートでした。玄関へ入った右手は地味な仏壇です。左手は応接間、その奥の四坪の狭い空間が別世界です。そこには、國祥兄弟が長年、濟南教会と玉蘭荘から貰った表彰状、団体の写真、御自分が筆で書いた聖句の掛け軸、ゲッセマネの祈りの絵が飾ってあります。彼の玉蘭荘での手作りの手芸作品が、整然と並んで居りました。その一角に、ベッド、テレビ、聖書を置いた机が狭い空間の中に置いてありました。遺族によりますと、國祥兄弟はこの狭い空間で、聖書を朗読、讃美歌を歌い、「好消息」(教会のテレビチャネル)を見て、祈って、五十年生活されたそうです。つまり、この狭い一角が彼の精神生活の全てです。この狭い一角を一歩出ますと、異教の一貫道の世界です。五十年来、彼は信仰を守るため、想像を絶する努力、辛抱と涙を経て、生涯イエスキリストへの信仰を守り通しました。私は涙が溢れました。

 岡山に在学の彼は発育盛りの食欲旺盛の時期でしたが、ひもじいため、大量の水道水を飲んだそうです。故郷と親元を離れ、異国での孤独且つ貧乏な学生時代は、彼の人生のどん底でした。その時に、日本人の同級生とその彼のクリスチャンの家庭が愛の手を彼にさし伸べて、彼を助け、励まし、日曜日は教会へ連れていってくれました。この同級生が、國祥兄弟の孤独でひもじい心の内に、福音の種を撒きました。小さな種が国祥兄弟の善良、温厚な性格の中で、周囲の妨げと圧力を克服しつつ、大木に成長しました。まさに、マタイ十三章の「種まきの譬え」を立証した証です。

 晩年、國祥兄弟はパーキンソン症に悩まされ、最後は脳溢血で約一年間の病床生活を送りました。不幸にして、彼の一人娘が父親の看病による過労のため、父親より先に世を去りました。國祥兄弟に取って、信仰は必ずしも全てがハッピーではありませんでしたが、彼は感謝と平安にて召されました。一貫道の遺族が最終的に、父親の信仰を尊重して、教会による告別礼拝を以って、國祥兄弟の生涯を閉じることが実現出来たことはなにより有難いことでした。

 國祥兄弟と同じ年代の台湾人は悲しい年代と称しても過言ではない筈です。貧困な台湾に生まれ、医者になる以外、将来性を持った職はなかった時代です。皇民化教育の体制下にて、彼らは中国語とは全く無縁でした。一九四五年に終戦、中国本土から接収に来た国民党員が政府の要職を占めました。日本語しか出来ない、北京語の読み書きが出来ない、北京語による対話が出来ない楊國祥兄弟の年代の台湾人は昇進出来ない境遇に置かれました。しかし、台湾の戦後五十年の建設は國祥兄弟のように、日本の教育を受けた、地道に実務を遂行できる訓練を受けた台湾人が主役でした。彼らなくしては、戦後五十年の建設は不可能でした。但し、彼らは憂鬱な人生を歩みました。彼らにとって北京語よりも日本語が母国語です。彼らの価値観、思考方式は基本的に日本式です。中国式に対して強烈なアレルギー反応を示します。教会と玉蘭荘から國祥兄弟が励ましと慰めを得た背景は、台湾の歴史の一頁を反映していると思います。國祥兄弟の晩年を通して、玉蘭荘の存在意味と存在価値を改めて再認識致しました。

楊國祥兄弟は困難な境遇にて、社会に貢献を残し、信仰を守り通し、感謝と平安を以って
人生を閉じることが出来たその
生涯を通して、私は福音の価値
を再認識しました。
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