その後の「タケシさん」と「タケシ」の思い出/杜武志-(148)

「タケシ」で通った小学時代は毎朝体操があり、台北二中では業間体操のみならず水泳のコースがあり、月毎に有名な十㎞の長距離マラソンがあった。フットボールは二中の校技故、よく「青芝」(運動場)を踏んだ。剣道の寒稽古は背丈の高い先輩に後頭部を撃たれることで大変だった。運動場では台北一中にひけを取ったが、一九三一年十月十九日に執り行われた台北高等学校主催(教授・甲斐三郎出題、何故か一回きり)の全台中学生の数学学力調査試験に於ける二中生の平均成績は見事台北一中生を上まわった。(台北二中平均点 三十四.〇、台南二中/現台南一中 三十二.二、台北一中 三十一.三、台中一中 二十四.四、台南一中/現台南二中 十七.四......)因みに台北二中、台南二中、台中一中は戦前の台湾人エリート校である。

 話は飛ぶが、今年のインフルエンザでさんざん搾られる前に、とても嬉しい事があった。例の「タケシ」さんで、私に楽しい小学時代の思い出をもたらしたヒロイン初瀬祐子さんからのお便りであった。初瀬さんは、私が特に取り上げたお方だけに、流石に違うと思った。あの見事な封筒を見た時は、わが目を疑った。「手書き」のお手紙、懐かしく拝見しましたとの書き出しで、トルコでの生活は台湾と違って豚肉の食用がかなわないし、テロが横行するので閉口したとも書いてあった。在台期間にもっと何かして上げられたらなぁと悔やまれてならなかった。

それから暫くして、何年間も文通で勉強させて頂いていた博士生の津田勤子先生からもお手紙を頂いた。「蘆葦会」で一度お会いしただけだが、文中「杜先生」が「タケシ先生」になっていた。津田先生帰省の折に差し上げたベートーヴェン(CD)を彼女のお父様が聞かれて「ファン」になったということである。日本の小澤征爾にもひけをとらない台湾NSOのGMDでコンダクター・呂紹嘉の日本人ファンが一人増えたことになる。これ程私を喜ばしたことはない。

また話は飛ぶが、私は高雄医学院在職中に『中国古代性理学』なる本を一冊まとめ上げた。私は日本で言う所謂「戦中派」であるので、「苦労」「仕事」などには慣れているが、押し寄せる高齢化の荒波にはとても抗しきれない。今や一時間位の読み書きで腰が怪しくなる、はては寝そべってしまう、そうなると本は読めても字が書けないので仕事にならない。リハビリに努めているが、老化とあらば手の施しようがないようである。

 高雄医学院を離れた後で、台北成功高中(新制高校)で五~六年間教鞭をとった。その後スカウトされて板橋にあるC会社で奉職した。日本は開港明治維新で僅か六十年にして列強にのし上がった。ならば家庭、会社も国家と同じように、やり方一つで近代的な進歩したマンモス企業体に改造できるんじゃないかと思った。その為には全社員の意識革命が必要である。それで手始めに『明治天皇』を中文に訳して「壁新聞」に連載した。一万円札にある福沢諭吉の主張した「脱亜入欧」論は是非とも必要だったからである。日本は幸い末代将軍徳川慶喜が大政奉還をしたので、群雄割拠に至らず、その上士族らが挙国一致して頑張り、逸早く統一国家としてアジアに進出できた。『明治天皇』の著者小島政二郎は、明治人故言葉の使い方は荒いが、私としては権威ある著作として出版したかったので、原著者に揮毫(書名等)をお願いした。色んな方々のお力添え、根回しがあったが、条件があわずに失敗した。私は鎌倉大仏参拝のみぎりに小島宅を表敬訪問した。しかし奥様らしき御婦人の方から「先生は居りません」と言われ、お会い出来なかった。「日本能率協会」の方は序文迄書いて下さった。

 ともあれ、一時私は嬉々として「タケシ」で過ごした。昭和大学・故黄昭堂教授の言葉をお借りして言うならば、私も皇民化された一人であることになる。今でも思い出されるのは、台北二中の招き「猫」姫宮秋好が始政記念日の前日に右手で竹刀を八十回ばかり振り下ろした。無念と屈辱で真っ青になったT君は、さぞ怨み骨髄に徹したであろう。それでも不動の姿勢を崩さなかった。他人事とは思えないだけに、つい「何故、どうして」と思ってしまう。蛇足になるが、戦前皇国史観で罷り通った基本教育に携わったお方に梅田先生もおられたが、こんな御仁もいたことになる。

 台湾語に「祝你食百弐」(百二十歳まで長生きするよう)とある。『黄帝内経』からの引用だが、中国では古来、「百六十歳をもって人間の定命とし、八十一歳をもって「半寿」という。願わくば、もっと心身共に健全でハッスルしてあと何冊か本を残したい。養生如何によっては或いは実現可能かもしれない。とても頑丈だったクラスメートが何人か若年にして他界しているのを見ると、まったく自信がない。ところが神の御恵みか、私は馬歯徒らに増える一方で、何時の間にか八十路の峠を越えてしまった。私の人生とて残された夢のようにはかない空虚そのものではあるが、夢を持ちたい。今はただ、豊臣秀吉の「なには(難波)の事も夢のまた夢」にならないよう祈るのみである。
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