私と玉蘭荘の出会いとその感想/許碧月-149

二〇一四年の十月中旬、私は玉蘭荘に見学に来ました。私はその年の四月病院で検査を受け、結果、お腹の中に大きな腫瘍が発見されました。手術が困難なのでそのままにしました。検査用の薬剤の副作用により、人工透析を受けるようになりました。退院後、息子の提案で玉蘭荘に見学に来たのです。今年の一月、正式な会員に加入する事になりました。最近、この文章を書くことで、様々な記憶がよみがえってきました。

一九六四年、長男が五歳で長女が三歳の時、家族四人は主人の留学のため日本へ行きました。武蔵野音楽大学でバイオリンと指揮を三年間勉強する予定でした。

その留学の間、生後三ヶ月の三人目の子どもが、急性肺炎で亡くなりました。主人は毎年夏休みには「原住民音楽」の調査のために台湾に帰国します。その間二人の子どもを日本で育てるのが大変なので、長女を主人の両親に預けました。生活のため、台湾の持ち家を売却し、たくさんの借金もしました。日本滞在は十年となり、主人は博士号を得ました。台湾に戻ってから大学で教鞭をとり、師範大學音楽研究所の教授と、実践大學音楽科の主任教官をしてきました。一九八五年十二月、イギリスのエジンバラ大学から、当時教えていた香港中文大學に戻り、三月十九日のニューヨークでの会議の準備に忙しくしている最中、心筋梗塞の発作を起こし、亡くなりました。五十六歳でした。

 私と主人は十五年間、幼稚園を経営して来ました。幼稚園は主に音楽を重点に、その他英語や体育などを取り入れた、当時では斬新な教育でした。

私の一生を振り返ると教育との関係は深かったと思います。日本に滞在している間、草月流の師範資格を獲得し、また美容師の国家試験に合格しました。台湾で美容院を経営する傍ら、生け花も教えてきました。数年後、主人の事業を助けるために、台北に転居しました。

 現在長男は、大学の応用日本語学科で日本語を教え、同時に通訳及び翻訳の仕事をしています。長女は元ピアノの先生でしたが、癌に罹り、昨年の四月に亡くなりました。

 玉蘭荘に来る度に感謝の気持ちでいっぱいです。玉蘭荘の創立時の先輩方の苦労と熱意、及びボランティアの皆さまの貢献により、二十六年間の今に至るまで継続して来られました。玉蘭荘は今の私の心の居場所になり、生活の一部分として毎日の元気の源になっています。

 今後玉蘭荘が益々成長し、永遠に私達の心の居場所として続いてくださる事を心から願っています。
(会員)

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