夫呂克明の生涯/林幼緞-151

私の夫・呂克明は、二〇一六年一月二十一日の夜、主に召されて天国へ行きました。私達は彼の信仰を尊重して、二月六日にキリスト教の告別礼拝を教会で行いました。寒空の下、多くの友人、玉蘭荘の兄弟姉妹に参列していただき、心から感謝を申し上げます。

 呂克明は一九三二年、八塊厝(現在の桃園市八德区)に生まれました。幼いころから父母の愛に恵まれて育ち、良い教育を受けるため、八歳のときに台北へ引っ越して日新小学校に通いました。しかし、彼が十歳の時に母親が病気で亡くなると、再び八塊厝ヘ戻り、付近の公学校に転校しました。

 彼の父親は仕事熱心で心の優しい人でした。生活に余裕が出ると近隣の貧しい人達の医療費や薬代を肩代わりしてあげたり、友達と共にハンセン病患者のための施設「惠仁院」(現在の私立八德殘障教養院)を創立したりと、慈善事業に身を捧げました。そんな父親の影響をおおいに受けて、彼も心の優しい、弱者にすすんで手を差し伸べる人になりました。そして努力を重ね、戦中戦後の混乱した時代に、台北二中(現在の成功中学)と淡水高校を卒業しました。

 高校を卒業した後は農会(農協)に勤め、総務課長まで昇進しました。様々な仕事をこなしつつ、結婚、兵役を経て、やがて四人の息子をさずかりました。後に父親の紹介で、親戚の営む傘の工場に会計助手として入社、そして会社から政府主催の研修に参加し、珠算を学んで、会社の会計業務に役立てました。

 家族が増えると経済的な負担も重くなります。そこで親戚の一人が繊維紡織工場を開くと聞き、彼は収入が増えると考えてその工場に転職しました。何年も努力し、やがて工場長にまで昇進する頃、ちょうど台湾全体でも紡績業が非常に盛んになり、業績もうなぎ登り、工場の規模も大きくなっていきました。

 一九七五年、呂克明の奥さんが病気で倒れ、事業と妻の看護、そして経済的な負担がすべて彼一人の肩に重くのしかかりました。そこで仕方なく工場を辞め、桃園に戻って自分で紡織の下請事業を始めました。初めの半年は赤字続きでしたが、やがて徐々に利益が出るようになったころ、彼の奥さんは天に召されました。

 一年後、呂克明は私と再婚しました。そして一人の可愛い娘をさずかりました。同じ頃、友達の誘いに応えて新しい紡織工場を開き、昶維公司と名付けました。当時台湾の紡績業はアメリカと中国、東南アジア各国の激烈な競争に巻き込まれ、なかなか事業を思うように発展させることができず、心身ともに疲れ果てた彼は、ついに病に倒れてしまいました。

 検査の結果、彼の病気はパーキンソン病でした。その病は治療に長い時間が必要なので、仕事を辞めて治療に専念することに決め、あちこち病院を探し始めました。

 とりあえず薬物治療で病状を抑えることにしましたが、体の震えは日増しにひどくなり、途方にくれました。そんなとき、従姉の同僚で元台大病院看護師の劉霑妹さんが、日本にいた頃勤めていたという東京の楢林病院を紹介してくださり、意を決して日本へ渡り手術を受けました。するとあれほど悩まされた体の震えがずいぶん治まりました。そして台湾へ戻った後、劉さんがもう一つ紹介してくれたのが、この玉蘭荘でした。そして私たちは玉蘭荘でキリストの信仰とめぐり合い、新しい人生を迎えることができたのです。

 毎週月曜日、私の運転する車で主人と一緒に桃園から台北の玉蘭荘へ通いました。午前中の礼拝に牧師のお話を聞き、聖書の御言葉を学び、信仰をさらに深めました。また、王満牧師夫人の導きによって八德長老教會で日曜日の礼拝に参加させていただきました。そして、二〇〇三年に洗礼を受けました。

 主人がパーキンソン病を患って三十年間、始めの頃は聖書の勉強、野外散策、カラオケなど玉蘭荘の活動には何でも参加してきました。これはまさにキリストの信仰によってその精神と力を与えられたのであり、また玉蘭荘の兄弟姉妹とボランティアさんの優しいケアのおかげで、不自由な体ながらも楽しいひと時を過ごすことができたのです。

 やがて年とともに体も衰え、主人のパーキンソン病も悪化していきました。しかし彼の生命への情熱は冷めることなく、病気について愚痴を言うことも、体の痛みに耐えかねて癇癪を起すこともありませんでした。病院のICUに何度も出入りしましたが、彼は常に生きたいという強い意志を持ち、最後まで私達のよき夫、よき父、そして優しいおじいちゃんであり続けました。

 この度呂克明は、病状が突然悪化し、人生の旅路を走り終えました。愛する家族と友人たちに囲まれ、賛美歌の祝福の中、イエスキリストに導かれて、彼は美しい天国へ行ったと確信しています。

(賛助会員/会員・故呂克明さんの奥様)
(陳旭星、重金優子翻訳)
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