活動日おしゃべりの時間に/余甚足

活動日のおしゃべり会の時間に、劉心心文集より、一編の詩を朗読させて頂きました。

「私は台湾語で書きたくても文字がない。中国語や英語で書くには自信がない。素直に思う通りの表現が出来るのは日本語だけなの。でもこどもも孫たちも日本語は解らない。私が日本語で書いても家族の誰が読んでくれるのでしょう・・・。

海の向こうの故郷   一九九一年作

一、半世紀以前のある日
学校の先生が生徒に言いました
「今日からお前たちは皆日本人だ
北の方、東海の向こう
天皇陛下のおわす「内地」が
お前たちの忠誠を尽くすべき国家」

二、四十年前のある日
学校の先生が学生に言いました
「今日からお前たちは皆中国人だ
西の方、台湾海峡の向こう
中国大陸が
お前たちの愛する祖国」


三、二十年前の学生は友達に言いました
「東の方、太平洋の向こうに
拡大な土地がある、皆一緒に移住しよう
皆でアメリカ人になるんだ
我々のドリームはアメリカにある」


四、今の大人たちは
自分のアメリカの子供に言いました
「太平洋の向こうに小さな海島
緑濃き山々 清らかな流れ 淳朴な人々
あそこがお前たちの故郷
我々の真の国土なのだ」


五、暖かい母親のふところよ
赤子のゆりかごよ
ふところは何処に?ゆりかごは?
寂しい台湾人よ、流浪の台湾人よ
どうしてお前の故郷は
何時も海の向こうでなければならないのだろう。

子供達が大人になり始め頃、私は子供達との会話で、細かい感情が通じない事に気付いた。日本語を常用語とする私と、幼稚園児の頃から中国語を習わせられていた子供達とは、日常生活には支障は無いけれど、一歩踏み込んだ、お互いの生活感情の微妙な表現がうまく出来ないのです。思えば私達には三代に渡って同じ事が続いたのでした。

日清戦争後、台湾が日本に割譲された時、私達の祖父母は台湾語を話していましたが、私の代になると、両親から貰った台湾語を小学入学と共に捨てさせられ、日本語になっていました。そして私の次の世代も幼稚園の頃から母なる国の言葉を捨てさせられて、「中国話人間」にさせられているのです。日本語を知らない祖母達が、私の世代の者との言葉の溝を経験したと同じ事を、私も経験させられていました。自分の子供と共有する言葉を持たない・・・それは、いらだたしく寂しく、空しいものでした。

ちなみに我が家はかつて、父母と我々夫婦は日本語で、子供と孫らは中国語で、家の中での交わりは台湾語と言う、三種の言語が使われていました。」
(劉心心文集より抜粋)

私と同世代、劉心心さんの文集を読んで同感のみならず、私の心の奥深くに長年溜った事柄を一気に吐き出させてくれた感じがしました。ちょうど私の言いたい事を全部言ってくれました。特に「三代に渡っての言語不通」は、私を過去に引き戻しました。

一九七七年、私達の同学会誌に私が投稿した文の一部をご覧下さいませ。そして私はもう一度、鬱憤を晴らす事にしました。

(前略)「国文でなくって、歴史だったわ」「いや、たしか国文の本だったよ」子供達が何かの物語りを言い争っている。「ねえママ、歴史だわね」負けそうになった末娘がママに助太刀を求めて来た。けれど子供達と違った教育を経て来たこのママには、加勢が出来ない。と同時にどちらが正しいかを仲裁する事も出来なかった。「ママはね、日本の歴史なら知っているけど我が国の歴史は解らないの。だからあなた方が言っている事さっぱり解らないのよ」仕方なく本音を吐いてしまったら、側で聞いた九十歳近くの母が「とうとうあなた達にもこんな時代が来たんだね。日本時代がそうだったんだよ。親と子どもの話がぜんぜん通じなくなる一歩手前だったよ」昔を思い出して、こう言いました。この時です。痛切に「時代の潮流に乗らねばならない」と感じました。(後略) 
                    
(会員)

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