信じるとは/理事長 都丸正夫 

台湾は総人口に当たる寺院の数が今でも世界で一番と聞いています。その民間信仰の種類も五花八門で、ありとあらゆるものが存在しているといっても過言でないくらいで、信徒たちも熱心で、慈済という仏教団体だけでも毎年数百億元、日本円になおすと約千億にもなる寄付があり、その活動も多面にわたり非常に大きな影響力を持っています。台湾の民間信仰には、迷信に陥りやすい非知識階層者だけでなく、知識階層の多くも積極的に参与しています。

研究者によると、台湾の民間信仰の特色には二つあり、その一つは、ばちが当たるのを恐れる恐怖から、もう一つの理由は、利害関係にあると言います。毎年旧暦の七月は、日本でもお盆がありますが、台湾では鬼月と呼ばれ地獄にいた無縁仏の鬼魂が約一ヶ月間地上に解き放たれ、人間界にいろいろの問題を引き起こすということで、この間台湾では結婚はおろか、引越しもタブーとなっています。ばちがあたるといけないからと言うのがその理由です。また、六合彩という宝くじがあり、その当たりくじの数字をもらうためどこの寺廟の神仏がよいかと奔走している姿をよく目にすることがあり、信仰が直接金銭の利害に係わっていることももう一つの特色です。

キリスト教信仰は、どう違うのでしょうか? 私たちの信仰の基盤は、恐怖からでもなく、利害関係からでもありません。それは信頼関係に立っているからです。使徒ヨハネは彼の福音書のなかでなんども「信じる」ということにテーマを据えて語っています。彼は、なんと九十八回も信じるという動詞を使っています。これはほか三つの福音書の著者が全部で合わせても三十四回、新約聖書全体でも二百四十八回という数字から見ても、その重要性が解ります。そして、その動詞の目的語は、イエス様で、信じる対象として説明されています。また、九十八回の内三十六回は前置詞のeis、英語にすると in または into が一緒に付いています。これは信仰がただ単に何かを信じるという知識的なことだけではなく、またイエス様の存在を信じるというだけでもなく、もっと進んで自分の人生をイエス様に委ねるという行動を伴った人格関係を意味しています。ヨハネは、来る、従う、入る、飲む、受け入れる、受ける、愛する、聞くという言葉などを信じるの同義語として使用することによって、いかに信頼関係が信仰の基盤であるかを強調しています。

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ福音書 一‥十二)

この聖句では、信じるということを受け入れるという信頼関係を表す言葉で説明されいます。では、どうしたらそういう信頼関係を持つことが出来るでしょうか。ヨハネは次のように言っています。
まず、聖書のイエス様を個人的に知ることから始まります。

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(同 五‥三十九)
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。(同 十七‥三)
第二に、聖書の御言葉を自分の生活の中で体験することを通して、より主イエスを信頼し(trust)、従う(obey)ことを学ぶ。
また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。(同 五‥三十八)
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。(同 十四‥二十一)

もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。(同 十五‥十)

ただじっとして考えているだけでなく、イエスに従うことから信仰を捉えてみてはどうでしょうか。

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