人生、これからが本番/理事長 都丸正夫

画龍点睛‐物事を完成するために、最後に加える大切な仕上げのたとえで、中国六朝時代、梁(りょう)の絵の大家張僧繇(ちょうそうよう)が都金陵(きんりょう)の安楽寺に四頭の竜の絵を描いたが、睛(ひとみ)を描き入れると竜が飛び去ってしまうと言って、睛を描き入れなかった。世間の人はこれをでたらめだとして信用せず、是非にと言って無理やり睛を描き入れさせたところ、たちまち睛を入れた二頭の竜が天に昇り、睛を入れなかった二頭はそのまま残ったという故事からきています。

 日野原先生は、この最後の仕上げを『人生、これからが本番』という本にして九十四歳で出版し、現在一〇五歳でいまだ活躍されています。彼は、人生は七十五歳からとも言って、新老人会を二〇〇〇年に設立、その主旨は、「七十五歳を過ぎても元気で自立し、これまでの人生で培った知恵や経験を社会に還元できる『健康老人』は多くいる。この人たちを『新老人』と呼び、生きがいのある人生を送ることを勧めたい。」ということです。この新老人運動は、二〇〇六年の時点で会員数は四千二百四十六人に達し、全国十六箇所に支部を持ち活動が行われて、日本だけでなくアメリカ、オーストラリア、それに確か台湾にも活動が展開していると聞いています。

 「人生、これからが本番」、私はこれを人生最後の仕上げと言いたい。この仕上げによって、今まで生きてきた経験や積み上げてきた知恵を価値のあるものとして後世に残せるのです。内村鑑三という人は、それを『勇ましき高尚なる生涯』と言って、誰にでも残すことができるとも言っています。それは、その人の功績とか能力とかと言うのではなく、その人の生き方、品性が問われています。

では、最後の仕上げにしなければならないこととは、なんでしょうか? たくさんある中で、三つのことを勧めたいと思います。

㈠ 一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものです。イエスは、「受けるより与える方が幸い。」(使徒行伝二十:三十五)と語っていますが、本当に私たちが人にしてきたことが人の心に残っていくのですね。東南アジア文化友好協会を創設した加藤亮一牧師は、第二次大戦で日本兵が現地の女性との間に残してきた子供達を日本がすべき「つぐない」として、戦後募金を募りそれらの子供達を日本で大学教育を受けさせ、祖国に返すという事業を長年継続してきました。その働きは、加藤先生が亡くなった後も引き継がれ、いまだに続いていますが、彼が亡くなった時に彼にはあまり財産は残っていなかったと聞きました。毎年何千万という募金を集めていた人なのに、彼は「与え続ける」ことで、インドネシアに多くの人との絆を残したのです。それが彼の残した素晴らしい財産でした。

イエス様は、与えることの究極な姿を、ヨハネ十二:二十四で一粒の麦に例えて、こう言っていますね。『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。』と。

㈡ 「歳をとって良いことの一つは、私利私欲がなくなるということがある。」(日野原重明)

それだから、本当に大切なこと、必要なことを選んでするようになるのです。では、本当に大切なこととはなんでしょうか?それは、「人のために進んで何かをする」ことです。なぜなら、最後に残るのはやはり人とのつながりだからです。

詩篇七十一:十八のみ言葉を聞いてください。『神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての世代に宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。』と。

㈢ 毎日を「私の一番若い日」として輝いて生きる。歳をとると、醜くなると考える人もいます。加齢臭や物忘れもひどくなり、自分から惨めに感じたりします。しかし、誰も歳をとっていきます。嘆いても、何も変わりません。それなら、今日が「私の一番若い日」として輝いて生きた方がどんなにか良いでしょうか。どうせ生きていくなら、不満不平を捨て前向きに生きてはどうでしょうか?

詩篇九十二:十二-十五の示す如く、『年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、』新しい年を生きていきましょう。

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