陳慧如牧師を偲ぶ/牧師 林月桂

邂逅 :「陳さんが帰天されたのです。長い豊かな人生を終えて、安らかな休息に入られたのです。私たちも生かされている間、精一杯『自分らしく』生きて行きましょう!」

私のクラスメイトで、陳先生と同じく一九六〇年春、東京神学大学に入学し、三年間陳さんといっしょに女子寮で学んだ方からの便りです。

人生は長いようで短い。あっという間に五十五年が過ぎ去りました。一九六二年一月十四日、夜八時頃、私は羽田空港の移民局まで出迎えに来てくれた、兄の親友と共に入国ホールを出ました。ホールを出たその時、陳慧如伝道師がすでにそこで私を迎えに来ていました。正月といえば冬で一番寒い季節です。東京都下、三鷹市牟礼の東京神学大学から羽田空港に来ることは、当時は今よりとても大変なことでした。まず牟礼から吉祥寺まで。バスに乗る時間は十分くらいですが、一時間に一本です。吉祥寺駅から井の頭線で渋谷に出ます。山手線に乗り変え品川で下車。品川から京浜東北線で蒲田へ。蒲田からモノレールで羽田空港へ。空港を出た私たち三人は、タクシーに乗り、夜九時十分頃学校の女子寮に着きました。この日が私と慧如姐の邂逅でした。

私の兄夫婦は一九六一年十月、東京に行った時、陳慧如伝道師に私の日用品(布団等)を預けました。そして「妹が東京に着いたとき、空港へは迎えに行かなくて結構です。迎えに行く方がおりますから」と念を押しました。しかし寒い夜空の中彼女は二時間ほどの時間をかけて、羽田空港まで来てくれました。その時から慧如姐は、私と私の兄夫婦と、親しい友になりました。
彼女はとても痩せていました。双連教会でのニックネームは「やせ」でした。特に両脚の細いこと。大人のストッキングでは皺が寄ってだぶだぶ。だからいつも冬は、厚い子供用の長いソックスを穿いていました。今でもあの細い姿が私の瞼に浮かびます。

学寮生活:陳慧如伝道師は、一九六〇年四月、東京神学大学学部三年に編入しました。二年後の一九六二年四月、私も学部三年に編入しました。日本基督教団に所属する東京神学大学は、学部四年、修士課程二年、博士課程と三学部に分かれていました。この学校に正式の学籍をおいて学ぶ人は、他校でどんな学位を習得していても、一律学部三年から編入するのです。
私に当てられた女子寮ルームに入るとき、学部一年の岩塚待子さんが、両手に赤い木炭の入った小さい七輪を持ってきてくれました。後でわかりましたが、当時学寮には暖房が無かったので、慧如姐が特別に頼んでくれたのでした。翌日慧如姐は、私にラーメンを奢ってくれました。私は、醤油ラーメンはまずいと思いました。慧如姐は握り寿司が大好きでした。私は生ものが苦手で、いつも海苔巻きでした。吉祥寺駅の近くに「彌助」というちょっと有名なお寿司屋さんがありました。慧如姐はそこの常連客でした。帰国三日前の夕方も行きました。オーナーはその夜のお寿司を、彼女への送別としてくれました。女子寮で共に暮らした一年と二ヶ月。短かったが、素晴らしい思い出がいっぱいです。東京でのはじめてのクリスマスイブ。東横デパートに、不二家のアイスケーキを買いに行った帰り、初雪に出会ったこと。上級生四人で日光に一泊旅行したこと・・・今はただ懐かしい思い出となりました。

一九六三年三月、慧如姐は帰国しました。そして四月に台湾神学院の同級生だった、蘇慶輝牧師と結婚されました。彼女は留学する二年前すでに婚約していましたが、勉強好きな彼女は、二年間という約束で日本留学したのですが、三年間学ばれました。彼女の一生は私のクラスメイト申英子牧師の言葉通り「豊かな人生」でした。私と慧如姐の交わりは約五十五年間ですが、神に仕える女僕として、あちこち違った国での留学や奉仕などのため、交わりの月日は二十五年ほどでした。

慧如姐の晩年は(一九九八-二〇一六)、「退而不休」の言葉通り、故郷で主に仕えました。最後まで神に仕えることができたことは、キリスト者としてとても幸福な人生でした。

「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いをりっぱに戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」
テモテ第二 四章六節‐八節

評論: 0 | 引用: 0 | 閱讀: 1108