新しい門をくぐって/國際日語教会 牧師 臼杵みどり

三月、四月は、台湾からも日本の桜を見に行く旅行者が多いようです。

満開の桜を眺める喜びは、日本では特別の感慨があります。美しさに酔うだけでなく、ああ一年を迎えられた、昨年は誰とどこの桜を見た、今年は...と年月を数えたり、思い出を巡らせたり、その恵みに感謝します。

また桜の時期は、日本では卒業、入学、転勤、就職、結婚の季節でもあり、喜びと別れと出会いの時。ですから格別の思いが、花びら舞い散る華やかさと切なさに織り込まれます。

日本の卒業式は、学校や恩師、友人達との別れの時でもあり、寂しさや切ない気持ちになったり、厳かなムードやイメージです。ところが、台湾で、いくつかの卒業式に参加しましたら、まるで違う雰囲気なのに驚きました。

季節も六月、すでに夏。校門や校庭、卒業式会場入り口等に、色とりどりの風船のアーチがあり、親子などで、その明るい感じのアーチを音楽に合わせて入場します。私もカメラを携えてその門をくぐりながら、うれしい気持ちになりました。

そこで、はたと気づかされました。「門をくぐる」のは新しいスタート! 新しい世界へ入ることは不安と緊張もありますが、それ以上の期待にあふれます。日本の卒業式が「出ていく」別れを名残り惜しむなら、台湾の卒業式は、次の新世界「入場」の喜びを、風船などの華やかなアーチ(門)をくぐることで象徴させているのかもしれません。
では、私たちはどんな門をくぐるのでしょうか。

高齢になったら、「外出するのも億劫」、「もう新しい世界なんて...」、と思う方もいらっしゃるかもしれません。一方、玉蘭荘に連なる皆様は、常に何か新しいことを始めたり、学んだりされていることでしょう。常に「入門」。入門とは、その世界の道に入っていくこと、学んだり、弟子になることを意味します。

主イエス・キリストは「わたしは門である」「わたしは羊の門である」と語られました。「わたし=イエス」=「門」を通って入れば救われる、「門」を出入りすれば牧草を見つけられると。
門とは何でしょうか。日本では家の外構えについている出入り口です。以前、私は西洋宮殿にあるような大きな豪華な門を想像していました。聖書には神殿をはじめ、多くの城壁にある門が出てきます。

ところが、イエス様が「門である」と言われる部分は英語の聖書では「ドア」です。原文のギリシャ語でも、日常どこにでもある「戸」「戸口」に近いもののようです。中文聖書は日本語と一見同じ「門」ですが、中国語で「門」は入口、戸口を指します。当時の庶民の家では、のれんのような垂れ幕が一枚あっただけとも言われます。

つまり、主イエスが「わたしは門である」と語られたのは、門前払いするような仰々しい門ではなく、人々に親しみある身近な開かれた入り口だったのです。どの民家にも戸口や入口があるように、「イエス様の門」もどこにでもあり得るのです。気がつくとそこにあった!というような。

台湾でも子どもたちに大人気の漫画「ドラえもん」に出てくる「ドア」を御存じでしょうか。主人公ののび太君は、不器用な子どもです。何か問題があったり、困ったことがあると、未来ロボットのドラえもんに泣きつきます。するとドラえもんがポケットから便利な道具の数々を出してくれます。

便利道具の一つに「どこでもドア」があります。そのドアを立てて、ドアを開けると、過去から未来、世界中どこでもと、時間も空間も超えて好きなところへ行くことができます。

のび太君は気楽でいいなー、とちょっと批判的に見てしまうのですが、「困ったときの神頼み」する大人の姿にも思えます。実は私も「どこでもドア」が欲しいと思っています。漫画では、未来世界でこのドアは売られています。かなり古い漫画ですが 六十四万円(二十二~三万元)だそうです。六十四万円で海外だけでなく、宇宙へも古代世界へも、どこへでも行け、病気の時には、家の中でドアを開ければ、すぐ病院にも行けるのです。皆さんは買いますか?

私は、ある時ふと、私がずっと欲しがっていた「どこでもドア」は、主イエス・キリストだったことに気づかされました。

「どこでもドア」はドラえもんがいないと出てきません。未来世界へ行けないと買えません。

しかし、「わたしは門である」と言われるイエス・キリストには、どこにいても、人生のいつにおいても、出会うことができ、その扉をくぐることができます。求めた時に、目の前にこのドアが立てられており、開かれています。

求めなさい、そうすれば与えられる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。〈マタイ福音七:七〉

なんとこの戸は、身体が不自由でも、そのドアから入りたいと思うだけ、願うだけで、入れます。

今日も、ある高齢者の女性がこのドアをくぐりました。娘さんから電話があり、「媽媽が求めている」と。教会の兄弟姉妹と台大醫院へ駆けつけました。お母様は車椅子に座って、娘さん二人と一緒に待ってくださっていました。お祈りし、讃美歌を歌っていると、お母様は静かに涙しながら、疲れ切った苦しみの顔から明るい笑みがこぼれました。「あ、イエス様の門をくぐられた!」と確信しました。

イエス様の門をくぐると、安心感に溢れます。年齢に関わらず、新しい命を得るからです。

側には、友が一緒にいてくれることも見えてきます。今までと全く同じ生活の場にありながら、新しい世界へ入るのです。

毎週、台北市信義路三段一九〇-一號四階の扉を開けられる皆様は、そのドアを開けると、そこには思いがけない日本語銀髪族の世界があることをご存知です。更にもう一つの門をくぐってみませんか?
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