喜びの道 吳淑金牧師 --114号

皆さんおはようございます。また皆様にお会いでき、み恵みの言葉を分かち合うことが出来て大変嬉しく思います。


最近一人の姉妹が私に「ここの所、よく寝汗をかくし、よく眠れません。気持ちが何か妙に不安で少し憂鬱です」と言いました。私は彼女に「何か心配事があるのですか」と聞きました。彼女は「いいえ何もありません、只いつも少しストレスを感じます」と答えました。確かに人間の生活にはいつもストレスがあります。例えばテレビ漫画の"ちびまる子ちゃん"のテーマのひとつは「ストレス」を描いています。「お母さんに叱られるのが怖い」「学校の先生は厳しくて怖い」「宿題が終ってもお父さんもお母さんも遊びに連れて行ってくれない」「蝶々をとれない」など彼女の生活のストレスは現実的です。


私達一人一人が生活の現実的なストレスを感じているのです。しかし今日の聖書の教えピリピ書四章四-七節は私達に「あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。」と告げています。


ヨハネ十五章五節で主イエスは「私は葡萄の木、あなた方は木の枝である。いつも私につながっておれば、私はその人とつながっておる。」と言っています。いつも主の中にいると、人間の生活は主イエスのみ恵を得ています、自分の努力だけで成り立っている訳ではありません。又個人的な考え方によって成り立っている訳でもありません。


快楽と喜びは別々です。快楽は一時的ではかない。例えば、誕生日やバレンタインなど、お祝いが終わると快楽は素早く消えます。今日多くの人が自分の努力で快楽を探し求め、自分の考えで快楽を追求しています。しかしこの種の快楽は一時的なものです。少し時間がたつと又突然ストレスが襲ってきます。だから、「酒でうさばらし」する人も少なくありません。


私達の環境はいつも変化しているので、良い時もあれば悪い時もあります。人間の気持ちは環境の変化によって、愉快になったり、ストレスを感じたり、憂鬱になったりします。しかし、もし私達の生活が主の愛の中にあり、主の庇護のもとにあれば、私達は主によって喜びを感じることが出来ます。


ある日、一人の母親が子供を連れて雑貨屋に買い物に行きました。その時は丁度サクランボの季節で、雑貨屋の主人は子供に「サクランボを少し持って帰って」と言いましたが、子供はただ遠慮がちに黙って立っていました。店主は「お前、サクランボが嫌いなのか?」と聞きました。子供は「好きです」と答えました。店主は両手でいっぱいのサクランボを子供にあげました。あとでそのお母さんは「何故自分でサクランボを取らないで、おじさんから貰ったの?」と聞きました。子供は「おじちゃんの手は私よりもっと大きくて、もっと多く貰えるから」と答えました。このストーリーは私達に神様からもっと豊かなみ恵みと愛を受けるひとつのヒントではないでしょうか。


私の奉仕している女子神学院の学生の話です。ある日の放課後、彼女は車を運転して母親と二人の友人をのせ、三重市の実家に戻りました。母親は彼女達に夕飯をご馳走し、夕食後兄は彼女達を自分の家に招いて、信仰について話をしました。兄は最近キリスト教の信者になったためです。しかし、お話の後友人と家に帰ろうとした時、車がレッカー車で持って行かれたことに気づいたのです。しかし彼女の気持ちは未だ嬉しさでいっぱいでした。兄を恨む気持ちは全くありませんでした。信仰の話をしていた為、車をレッカーでもって行かれてしまった。しかし彼女は喜びの気持ちで二人の友人をタクシーで家まで送り、自分はそのタクシーで自分の車を引き取りにいきました。罰金は払わなければならないし、車を取りに行くのに時間は掛かるのに、彼女はまだ喜んでいました。ある理由で心はかわらない、すべての人を咎めても一人だけは咎めない。彼女は何故そのような表現ができたのでしょうか?


その主な原因は彼女の心が主と共にあるからなのです。主の聖霊が彼女を感動させました、自分の不注意で違法な場所に駐車したことを知った、そして罰金を払わねばいけない、以後はそういう事をしない様に改めねばならない。彼女にこのように多くの知恵を与えて下さった神に感謝しなければならない。困った状況に対してでも冷静な気持ちで向い合うことができた。例えば詩篇十六篇十一節に「あなたは命の道を私に示される。あなたの前には満ち溢れる喜びがあり、あなたの右には、永久にもろもろの楽しみがある。」とあります。


ある軍人が主イエスから救いを受けました、それで彼はいつもにこやかで、態度も活発で喜びに溢れていました。彼に会った人は彼に対して深刻な印象を持ちました。ある日、彼の同僚が彼に質問しました。「私は全く分からないのですが、あなたはキリスト教徒と言うが、そのようには全く見えません。」彼は聞いて大変奇妙に感じ、その同僚に遠慮がちに聞きました。「あなたは私の言っている事が正しくないと感じたのですか?」同僚はつぎのように答えました。「いいえ、あなたが話している事を言っているのではありません。私が知るところではキリスト教徒は皆苦味ばしった顔をしていますし、思慮深く、大変重い罪の重荷を背負っているように見えるのですが、あなたはそうではないのです。あなたは私の部隊では最も楽しそうに見えます。今まであなたが苦悩している様子を見たことがありません。そういう訳でよく分からないのです」。


主を信じる軍人はすぐに同僚に言いました。「親愛なる友よ、私の喜びには理由があるのです。私の犯した罪はすでに主が償ってくれました。そして主は私を許してくれましたし、私の重荷も取り除いてくれました。それで私の心は大変軽やかになりました。その上自分に向き合い、将来にも思いをはせるようになりました。私の心は希望に溢れています。喜びはもくもくと雲のように心から湧き上がってきます。」それは、まさに箴言三十一章二十五節の「力と気品とは彼女の着物である、そしてのちのひをわらっている」ということです。

何故この軍人は将来の状況を思い喜んでいるのでしょうか? 彼は主の中に住んでいるのですから。主イエス様は言います。彼の中に住んでいる全てが求め、願う所のものを、主は私達に与え、成就させてくれました。これはキリスト教徒最大の恩恵です。主イエス様が私達に与えて下さる最大の祝福なのです。


皆さん、この世界は常に変わり続けています。気候も政局も変わっていますし、環境も変わっています。しかし私達はイエス様によって、心は平和で安らかです。生命も保障されています。彼は不変の主であり、全能の主です。そしていつも私達を見守って下さっています。


ある一艘の大きな船が大西洋を航海していました。途中霧に遭いましたが、船は速度を落とさず、走りつづけました。乗客は大変心配しました。相当な時間が経ち、乗客たちは集まり話し合いになりました。代表者が二人船長のところに行き、船の速度を落とし、船員を船の舳先と船尾に配置するよう頼みました。濃霧が視界を遮り、事故に遭うことを恐れたからです。しかし船長は乗客の代表に、心配しないで下さいと乗客達に告げるよう頼みました。操縦席は船の一番高いところにあり、船長と船員はそこにいます。そこには霧はありません、視界を遮るものもありません。私達は試練や困難に遭えば心配になります。我々の位置から見ると、目の前には多くの霧があり、茫漠とした暗闇が広がって、何に遭遇するかわかりません。しかし主は上にいます、見えないものは何もありません。我々の全ては主の目の中にあります。イザヤ書二十六章三節にはこうあります。「あなたはまったき平安を持って、志の堅粉物を守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」


主の中で、主を信じることこそ喜びの道です。神様に皆さんの幸せを祈ります。

     (七月二日の礼拝にて  翻訳・荒井康弘さん)

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