映画と私/林孟毅

私が初めて映画に接触したのは、約八十年前の、七歳か八歳の頃ではなかったかと記憶しています。当時自宅は、今の台中市太平区にあって、ある日近くの広場で夜、映画の上映があるという事を聞き、好奇心に駆られて見に行きました。当時映画は、活動写真と言われてトーキーではなく無声で、スクリーンの傍らに弁士が立って、日本語に台湾語を交えて、イントネーションを付けて解説していました。ちょっと滑稽な感じがしたが、終わりは確か、薬のコマーシャルと覚えています。映画の内容はよくわからなかったが、面白いものがあるな、と感心しました。

 小学校(当時は公学校)二年生のときに、西区の学校に転校し、五年生の頃から市立図書館に繁々と足を運ぶようになりました。帰宅の途中に図書館が建っていたので、とても便利でした。そこで、少年倶楽部、怪人二十面相(江戸川乱歩著)、戦国時代の歴史小説、翻訳物ではモンテクリスト伯、ああ無情...等、興味深く読んでいました。

 五年生の二学期あたりから、日曜日を利用して、映画館でトーキー映画を見るようになりました。当時(日支事変中)台中市では、映画館が四軒あって、私は専ら日本映画のみを上映している「台中座」、「娯楽館」を度々利用していました。映画は、時代劇と現代劇、各一本づつ当日に上映されます。その頃観た映画では、現代劇で、愛染かつら、純情二重奏、暖流、等。主演者は上原謙、佐分利信、高峰三枝子、田中絹代...等、悲しいシーンで涙を流した記憶が薄々と残っていますが、小さい頃から少しおませでセンチだったかな。

時代劇は、鞍馬天狗、丹下佐膳、忍者物等。主役は、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、大友柳太朗等。正義が邪悪に勝利した時は実に痛快で、手をたたいて喜んでいました。今思い出して、当時のことは本当に懐かしいですね。

 終戦後、最初に台中で上映された映画は「青い山脈」で、自信喪失と自己嫌悪に陥りがちだった当事の日本人にとって、その勇壮活発な軍歌なみの主題歌のメロディーは、多事多難な前途に対する希望のシンボルであったと思います。ヒロインの原節子が表現した、純潔さ、健気さ、気高さ等のイメージは、台湾でも大変な評判でした。彼女は、小津安二郎監督の有名な「東京物語」にもヒロインとして笠智衆と共演していました。

 暫くして「マダムバタフライ」も上映され、蝶々さんを演じたのは八千草薫で、アメリカ海軍士官役ピンカートンは、イタリアのテノール歌手だったと覚えています。これは、イタリアのオペラ作曲家プッチーニのオペラを映画化した作品で、時代背景は明治初年、長崎において発生した悲劇のストーリーです。

 戦後約二十年間、日本の風雲児として、国際巨星三船敏郎は、映画史に残る黒澤明監督との夢の師弟コンビが実現しました。出演された主な映画は、酔いどれ天使、羅生門、七人の侍、用心棒、赤ひげ...等、黒澤明がディレクターとして活躍した約半世紀の間に残した作品は、三十本くらい。特にイメージが深かったのは「羅生門」でした。演技に関しては、強い、豪快、自由奔放、可笑しいくらいデリケートな側面もあったが、総括的には豪放磊落な野人という印象でした。当事日本国内ではあまり評価されなかったが、国際映画祭でグランプリを獲得してから、一大センセーションを巻き起こし、スポットライトをあびるようになったと聞いています。これは、東洋人と西洋人の人性に対するコンセプトと、倫理観の差異ですかね。

 配役は異なるが、戦後何回も上映された「宮本武蔵」を最初に観たのは、吉川英治原作による物で、主演は三船敏郎、鶴田浩二、八千草薫、岡田茉莉子達でした。言動が粗暴で、頑固な青少年時代の武蔵が、沢庵和尚の教導でまともな武士となり、更に修業中に当時の最高剣術家の柳生雪舟斎や高僧の、「剣の道とは人の道なり」との示唆を受けて、武道の真髄を極め、後日ライバル佐々木小次郎と巌流島(舟島)で決闘し、彼を倒してついに全国無双の剣豪という野望を達成しました。しばらく細川藩で剣術指南役として仕え、晩年はひたすら兵法に専心し「五輪書等兵書」を残しています。

 余談になりますが、私は以前、小学生の長男(昨年アメリカで六十三歳で急逝)を連れて何度か、時代劇を観に行きましたが、そのせいで成人後でも興味が津々と湧くようで、最近まで、映画、ドラマに関しては、日本の作品が中国、韓国を凌駕してレベルが高いと肯定的でした。

 一九六十年代前後から、アメリカ、香港映画が徐々に入ってくるようになりましたが、特にアメリカの作品「十戒」、「ベン・ハー」等が有名で、主役はチャールトン・ヘストンでした。長時間でスケールが大きいのが特徴で、目を見張る思いでした。日本物では、石原裕次郎、小林旭達のアクションドラマが黄金時代でしたね。

 一九七四年、台北に引越ししてから、新しい仕事や様々な事情で映画館に行く機会が激減しましたが、一九八五年頃に、松本清張原作のミステリー「砂の器」の映画を観る事が出来ました。この映画は、極悪非道、残酷な殺人事件の物語で、私は未曾有の筆舌に尽くし難いショックを受けました。この事件に遭遇して、警視庁捜査一課の警部、刑事達の対応、解決の手段は大胆なおとり捜査、慎重な情報収集、如何なる些細な事物も見逃さない緻密な分析、追跡に基づくものでした。寝食をも忘れるその真摯な態度、不屈の精神には全く感動の極みで胸を打たれました。主演は国際スター渡辺謙、中居正広(元SMAPのメンバー)、松雪泰子でした。当時の台北警察局長が部下に、犯罪事件の捜査の手本に、是非とも観るよう推薦した唯一の映画でした。しかしこの物語は、紆余曲折を経て少し複雑で、ストーリーの展開のテンポも速く、一部了解しがたい所もあったので、再度観る必要があると感じました。これが、後日DVDを収集し始めたインセンティブではなかったかと思います。

 色々なジャンルを含めて、著名な作品を主に集めましたが、日本物が六十パーセント、外国物が四十パーセントくらい。シェイクスピア、トルストイの作品、チャイコフスキーのバレエ音楽舞踊、ベルディ、プッチーニのオペラ、若者向きの少し現実離れしたSF作品、アメリカの強烈なアクション映画等...。

 有名な女流作家山崎豊子の名著「白い巨塔」「不毛地帯」「二つの祖国」「華麗なる一族」等、大部分映画化され、長編物語は連続ドラマとしてDVDに収録されています。特に強い印象を受けたのは「不毛地帯」で、これは第二の人生を完璧に生きたいと願った男の壮絶なロマンです。

 「元大本営の陸軍作戦参謀として活躍した軍人が、終戦後シベリアで十一年間、酷寒と飢餓と強制労働に耐え、歴史の証人となるべく生き抜いてきた抑留生活、帰国後二年目に、過去の非凡なる作戦力、組織力を買われて、大阪の一流商社(伊藤忠をモデルにしたものと思う)に、社長室嘱託のタイトルで再就職しました。以後、自衛隊の次期戦闘機の購入、自動車産業、石油産業等...、熾烈な商戦の最前線に立たされ、遺憾なくリーダーシップを発揮して会社の業績を飛躍的に上げ、高度成長期の日本経済の振興にも甚大な貢献をしました」。以上がフジテレビ開局五十周年記念として制作されたこの連続ドラマのあらすじです。

 山崎豊子は雪のシベリアを、ハバロフスクからモスクワまで横断し、現地で抑留生活の実情を取材した上で、自由な創作を加え小説に構成しました。シベリア取材の帰途、モスクワからテヘランへ飛び、イランの油田地帯を廻った後に帰国しました。折りしもオイルショックが起こり、石油情勢が激変して、再び構想を練り直し、その後もサウジアラビア、クェートを廻り、イランの油田地帯を三度も取材しました。中東における女性の旅は、そのシビアなイスラム社会環境から察して、並々ならぬ苦労は必至だと思いを致し、全く頭の下がる思いでした。

 現在会員の皆さんが鑑賞中のスペシャルドラマ「坂の上の雲」は、原作司馬遼太郎の歴史小説をNHKの企画で映像化した作品であります。産経新聞に連載(一九六八年~一九七二年)されてから約四十年経ちましたが、この作品は連載中から評判が高く、映画化のオファも殺到しました。単行本も六冊、文庫本は全八冊に及ぶ大長編で、司馬さんの代表作と言われています。しかしあまりのスケールの大きさに、映画化は不可能ではないかと言われ、日本のテレビ映画界の悲願だった作品が、二〇〇九年末に、プロジェクトチームの責任者達の懸命なる努力によって、ついに完成しました。

 この作品(小説)では、前半の正岡子規が亡くなるまでは、明治の青春群像が主役で、後半は日露戦争を中心に描いています。そしてドラマでは、物語は三部に構成され、三年かけて(二〇〇九~二〇一一)、一部ずつ放映されました。このドラマは、従来の常識を超える規模で動き出し、予算、制作時間も桁外れな、日本ドラマ史上最大のプロジェクトでした。ドラマの制作では、撮影所のスタジオよりもロケでの撮影シーンが圧倒的に多かったのです。国内では、北海道から熊本まで、四十箇所を超え、国外では中国、内モンゴル、イギリス、ロシア、地中海、マルタ島等でした。

「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている」青雲の志を抱いた四国松山出身の三人の若者、彼らは明治という近代日本の勃興期をいかに生きたのか。どうぞ皆さん、最終回まで、ゆっくり味わってください。 

(会員)(林孟毅さんは数年にわたり玉蘭荘の映画鑑賞のためにDVD を提供してくださっています。)
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