私の戦争体験と人生の転機/郭維租(宮村宏一)
editer: 玉蘭莊 date: 2018-05-10 23:31
終戦既に七十周年、戦争を体験した老人は、今や全人口の二割に満たない。人間は歴史の教訓に学ぶのを忘れると言ふ事は、歴史の重要な教訓の一つである、と言ふ風刺的な言葉が有る。過去の重大な事件、大惨事は、子々孫々に語り伝えて、その再発生を防止しなければならない。そして問題は正義と平和の重視、貧欲と傲慢の克服にある。古来東洋でも義を重んじ、利を軽んずることが教えられて来た。神への畏敬は知恵の始まりである。
高千穂丸遭難
昭和十八年三月中旬、私は東大医学部一年の課程を終へ、春休で台湾帰郷の船旅の途中であった。十六日神戸出航、瀬戸内海を通って門司で一泊。翌日出航して一路南下、十九日昼頃基隆着の予定であった。船で読んだ二冊の本はシュワイツアー博士の「水と原生林のはざまで」、及び英国の宣教医師クリスティ著、矢内原忠雄訳の「奉天三十年」。非常に感動し、彼等にあやかって苦しむ病人、特に弱い者の為に極力努めようと決心した。ところが基隆着の数時間前、アジンコート沖で潜水艦の魚雷攻撃を受けた。咄嗟の内に三発が右舷に命中、八千噸の船は右後方に傾き、数分間の内に轟沈した。乗客乗員一千人餘りは一瞬の内に海中に投げ出された。重油で皆顔を黒くしていた。
基隆はもう近いので、きっとSOSを受信して直ぐに救助に来てくれるものと楽観し、「見よ、東海の空明けて......」等を合唱しながら励ましあっていた。ところが、待てど暮らせど救助は来ない。後で分かったが、咄嗟の魚雷命中の衝撃で無電機は壊れ、SOSを発信出来なかったのだ!刻一刻と時間は経過し、三月の海は大分寒い。このままでは凍死する。ボートに乗る以外に助かる可能性は無いと思い付き、四方を探した。有った!遥か彼方に一隻のボートが見えた。懸命に泳いで、やっとたどり着いた。ボートは既に満員であったが、何とか乗り込む事が出来た。有難い!何とか助かるかも知れぬ。ああ神様、何卒この惨めな者どもを憐れみ給へ!
しかしボートは既に超満員、これ以上乗り込めば沈没して全滅するしか無い。一部分の人だけでも助かるには、速やかに現場を離脱する必要が有る。そこでボートの漕ぎ方から練
習。南を指して漕ぎ出した。
食料不足で体力低下、二交替で飲まず食わず、不眠不休の重労働、然し助かるには奮励努力するしか無い。夢中になって漕ぎに漕いだ。その内に日が暮れた。曇り空で波風も大分荒い。
やっと夜が明けて二十日の朝、遥か海上に小島が見えた。
アジンコート(彭佳嶼)だ!
今日中にあの島まで漕ぎ着かなければならない!新たに勇を鼓して、ひたすら漕いだ...。夕方になってだいぶ島に近付いたが未だ一海里は有りそうだ。然し力漕の結果、十二本のオールは四本も折れ、足元の船板も古くなって海水が漏れる始末!それに黒潮は逆流になっている。若しかしたら、島を眼前にして無念の最後となるかも知れない!目から涙がこぼれ、故郷で待ちわびる父母の面影が眼前に浮かんだ。ああ神様、何卒この哀れな私どもに御慈悲を!心をこめて祈った。
すると見よ、既に薄暗い島影から、灯りが幾つも出てくるでは無いか。漁船だ!声を限りに「助けてくれー 助けてくれー」と叫び続けた。すぐ来てくれた。沖縄の漁船が十数隻、私どもを一隻十人位載せてくれた。有難い!助かったのだ!漁師たちは親切におかゆを炊いてくれ、一路基隆へ向かった。神様に感謝、漁師たちにも感謝!
二十一日早朝基隆着。上陸してふらふら歩いていたら、警察に酔いどれと間違へられて怒鳴られたが、やっと遭難は本当らしいと認め、一応派出所へ連れて行かれ、連絡の後、ある大邸宅に連れて行かれた。この遭難は内台航路で初めて、そして全島の学生が多く乗っていたので、社会への衝撃は大分大きい。
ボート二隻で計二四九人生還、然し一〇〇〇人近くが海底に沈む大惨事で有った。私どもは消息封鎖で一週間監禁の
後釈放された。
台北近郊の故郷に帰ると、父母兄弟、親族近隣、夢かと許り喜び迎えてくれた。
矢内原先生との奇遇
実は今度の遭難の少し前、思わぬ折に矢内原先生にお会いする機会に恵まれた。一月十日頃ある日の午後、思い立って千葉地裁の判官、陳茂源先輩を訪れた。突然の訪問だったが、折よく当日は公務閑散で、陳先輩は快く迎えてくれた。しかも驚く勿れ!「丁度いいところへ来た。私の先生、矢内原先生が夕方おいでになる。一緒に郊外の森に散歩の予定だ」と言はれ、先生について予備知識を話してくださった。先生は有名なクリスチャンの学者、東大経済学部教授で、また、内村鑑三の門下。植民政策専門で、台湾、朝鮮、満州等各地を実地調査研究し、日本の帝国主義搾取を批判した。名著「帝国主義下の台湾」は発行後間もなく台湾で発禁となったが、台湾留学生は内地で読んで、故郷について貴重な知識を得た。私も後に東大図書館で読んで大いに啓発された。
昭和十二年七月、日本は大挙中国に進攻。先生はキリスト信徒の良心と学者の良知の故にこの国策に反対し、「国家の理想」等の文章を発表して、大学内外で正義と平和を強調、帝国主義侵略を批判した。学内外の偽愛国者は彼を「国策に反対、国家を呪詛する非国民」として弾劾し、終に東大教職辞任に追い込まれた。(戦後懇請されて復帰)
先生は、予定通り夕方おいでになり、私どもはお供をして郊外の森を一時間許り散歩した。先生は長身で、何だか沈うつな面持ちで、言葉少なに陳先輩と話をされていた。その内に陳先輩が私どもに「何か先生にお聞きしたい事が有れば遠慮なく」と水を向けて下さったので、私は勇を鼓して「先生、時局は大変厳しい様ですが、一体これはどういふ事ですか。又どうすればいいのですか」とお伺ひした。先生は厳粛な面持ちで、「そこなんだ、問題は!日本は中国を侵略し、泥沼にはまって抜け出せず、更に今や米国始め全世界を敵に廻して苦戦中だ。戦争は大きな罪であり、同時には罰でも有って、抜け出せない。解決の道は只一つ--罪を悔い改めて神の前に謙虚になり、貧慾と傲慢を放棄する事!然るに彼等は頑固で、立ち返ろうとしないのだ」と言われた。私は目から鱗が落ちる思いがした。そうだ、全くそうだ!私が長年心中に秘めていた判断は事実で有り、今日本の良心に会ってその確証を得た。大分無理をして上京して来たのも、この一言を聞く為だった。来た甲斐が有った!よき師に巡り合い、神様に感謝した。こんな真実な日本人にはじめて会った。有難い!
この素晴らしい先生の信じる神様は、きっと真実で、素晴らしいに違いない。私は先生に従って神様を信じる道を歩むべきで有る事を知り、先生に御指導くださる様、お願いした。先生は喜んでご同意くださり、聖書と、先生の著作「イエス伝」、月間「嘉信」等を読み、先生の聖書講義に列する様、具体的にご指示くださった。私の生涯の一大転機で有った。
実は、私が貧しい家計の中で、父母に相当無理に頼み込んで上京したのは、医学をしっかり勉強する以外に、もう一つ大事な事が有った。所謂支那事変勃発当時、私は未だ何も分からぬ中学生であったが、台北高校に進むにつれて段々物事が分かって来た。台湾人の大多数は二〇〇~三〇〇年前に中国から先祖が渡って来た者で、日本が中国を攻めているのは、まるで父が母を撲っている様子。これは袖手傍観すべきでは無い。母を助けるべきでは無いか!親しい友人の間で、この様な話がささやかれた。これは重大な事、慎重でなければならぬ。先づ日本の真相を知る為に東京に行くべきだ、と言う事で、数名の友人は東大を志願、入試に合格して十七年四月に入学したのだ。
矢内原先生にお会ひし、日本にもこんな良心的な方が居る事を知って非常に感動し、喜んだ。しかも、岩波新書の先生の著作「余の尊敬する人物」、先生訳「奉天三十年」がベストセラーになる事でも分かる様に、日本の知識人、学生の内に、先生と同様に帝国主義反対の声が大分ある事を知って心強くなった。又医学部の級友の間にもそんな空気を感じた。東大の学生は台湾の内地人学生と違ふ!
十八年秋、戦局は随分日本に不利になった。台湾総督府は
在京の台湾学生に、代表を出して、台湾青年に志願兵になる
機会を与へられた事について、内閣各大臣に感謝に行く様指令があり、私も指名されて行った。翌日大学で級友に、昨日欠席の訳を聞かれて、その事を話し
たら、「本当に志願して戦地に行く人が居るの?」と聞かれ、私は「志
願の形だが、実際は徴兵と変りないと思ふね」と答えた。大戦中台湾人十二万が南方で戦ひ、三万の戦死者は靖国神社に祀られている。
只一回だけ、皇国思想の級友に説教され、国体観念に乏しいと叱られた。そして、「矢内原門下のキリスト信徒は、特に思想が悪い!」とけなされた。それでも、「僕等は友人だから、君を密告等しないが、時局は厳しく、特高、憲兵がうようよしているから注意せよ!」と警告してくれた。戦後彼に連絡したが返事は無かった。合はせる顔が無かったのだろう。然し私としては、軍部に騙されたのだと慰める積りだった。後に彼は本誌に寄稿し、不明を告白、失望を表明した。
終戦
米軍の強力な反攻により、フィリピン・沖縄の激戦と陥落、二回の東京大空襲、広島と長崎の原子爆弾、そしてソ連軍の火事場泥棒式満州侵攻。日本は昭和二十年八月十五日、終にポツダム宣言受諾、連合国に降服、十五年戦争(満州事変から日中戦争、太平洋戦争まで)は終った。
当時級友たちは既に軍医として各部隊に配属、私は坂口内科に残って臨床の研修に励んでいた。昭和天皇の終戦の詔勅を安田講堂に集って拝聴、多少涙声で、よく聞き取れぬ部分は有ったが、戦争が終った事は明白であった。私も涙を流した。それは複雑な涙、日本人として敗戦に泣き、台湾人として五十年の植民地支配から脱した喜び!丁度ユダヤ人がバビロン捕囚から解放されて故国に帰り、貧弱ながらエルサレム神殿を再建した時の様な、喜びと悲しみの混合で有った。
帰郷と大混乱
終戦翌年五月、私は数人の友人と共に、輸送船に乗って台湾に帰った。三年振りに見る故郷の山川は依然昔のままで有ったが、世の中は随分変っていた。今は中華民国に属して台湾省となり、中央から派遣されてきた将軍が行政長官として一切を支配している。
父は長年小学校教員を務めて教務主任、日本人の校長帰国後、その代理となって校長宿舎に移り住んでいる。久し振りに親兄弟と一緒に住み、心はなごんだ。然し社会は混乱。教師の月給は何ヶ月も出ないことがしばしばであった。私は直ぐ台湾大学病院内科に就職した。坂口内科の先輩小田教授が当分留任、一、二年間、熱帯医学を御指導いただいた。帰って間もなく、東京で知り合った女医、王彩雲と結婚、暫く故郷社子に住んだが、間もなく、家内の勤務する「迎産婦人科医院」が提供くださった部屋に移り住んだ。私は台湾大学で無給の助手、家内の月給で助かった。
当時中国は国共内戦でごった返し、台湾も多大の影響を受けた。蒋介石は内戦の死闘で、人材も物資もそちらに廻し、台湾に廻したのは三流の人材、忽ち合法非法の政府と日本人財産の接収と掠奪が行なはれた。そして食糧始め重要物資は続々大陸に運ばれて、宝島台湾の人民は食糧さえ欠乏、戦時より非道い生活難に呻吟した。かくて四十五年十月末彼等が来てから一年半が経たぬ四十七年二月末、終に全台湾を巻込んだ大動乱が発生した。二二八事件である。蒋介石は直ちに援軍を派遣して鎮圧、各地で悽惨な虐殺が行われた。殊に政府と人民の間に入って調停しようとした多くの知識人、リーダー格の人々が、暴民の代表として政府に要求する者と見なされて虐殺と暗殺され、全く言語道断の仕打ちであった。鉄門の後輩三人は卒業前に帰郷、台湾大学医学部に編入、何れも学生代表に押されていろいろ当局と折衝の末、一人は銃殺され、一人は島流し十年、残る一人は辛うじて香港に逃れた。私の身辺にも何度か危険が迫ったが、何れも神様のご加護で奇蹟的に難を免れ、情報局高官の医療保健に十年ばかり協力する事位ですんだ。半ば捕虜のような形で。
そして四十九年蒋政権が内戦に大敗して二百万の軍民が当時人口六百万の台湾に雪崩込み、混乱は極まった。白色テロと三十八年間の戒厳令で、本当に生きた心地がしなかった。八十八年計らずも台北高校同窓、京都大学農学部出身の李登輝さんが総統になり、やっと曲がりなりにも民主化が始まった。
医療と福音の生活六十年
私は国立台湾大学内科六年、慈善病院九年勤務の末、家内と共に開業四十四年、東京の一年を加えて計六十年、医療と福音の為に費やした。当時未だ全民健康保険の制度なく、多くの患者は病苦と共に貧乏にも苦しんだ。私は心を尽くして診療に当たり、特に患者の経済に気を配った。そして友人の間で聖書集会を開き、福音の伝道に努め、教会とYMCAを援助した。又同信の友を集めてキリスト信徒の医学協会を組織して、日本と韓国からはじめて、国際交流、世界各地の大会に参加、二〇〇二年台北に世界大会も招致、八〇〇名会員で六日間の盛会であった。又シュワイツアーの友の会、七十五年東京、七十九年台北でアジア大会、又世界各地、米国、英国の大会に参加、シュワイツアー博士の故郷を訪問した。かくて二〇〇五年家内と共に六十年の務めを終えて引退した。その間、恩師矢内原先生と高橋先生の福音良書を計二十数冊中国語に翻訳出版。
安楽で豊かな老後
在米四人の子女に招かれて米国移住、各家庭を順に巡って子孫と共に、安楽で豊かな老後を享受。教会内外に友人知人の多い南部は気候も台湾に近い。若き日の苦労に対して神様は倍して報いてくださった。感謝感激!
九十三歳の老爺、記して若き鉄門同窓諸士の御参考までに。
(会員 米国在住)
※二〇一五年十一月十日発行の東京大学医学部鉄門俱楽部の同窓会誌「鉄門だより」に掲載された文章です。この度、玉蘭荘だよりに投稿くださいました。