金門を訪ねて/理事長 都丸正夫

昨年の十月二十七日から三十日にかけて友人の招待で初めて金門島を訪れました。台風も台湾に近づいていて、帰りの飛行機のことが気掛かりでしたが、そんな心配を吹き飛ばすように四日間快晴の天気に恵まれました。ちなみに金門は、台北から飛行機で一時間かかりますが、大陸の廈門(アモイ)からは船で三十分と近く、晴れた日には廈門の街が目視できる距離です。

毎日の万歩計を見ると、一日目が一二〇二八歩、二、三、四日目はそれぞれ九三八〇、一四一八一、一二八一四と合計で四八四〇三歩、歩いたことになりました。見学したところは、高粱酒工場や古い民家を民宿村にしたなどの建設を除いて、戦場の史跡をこまめに訪ねました。その中でも、古寧頭戦役と八二三砲戦は多くの兵士が亡くなった戦場で特別なものとなりました。

一九四九年十月の古寧頭戦役では、中共の兵士を含めめて一万人以上が戦死、一九五八年八月二十三日からの双方からの砲撃では、四十四日の砲撃で合計四七四九一〇発の砲弾が中共軍から発射され、全壊半壊の家屋が五千、市民を含めて一千人とも、三万から四万の人たちが亡くなったとも言われています。

この旅で感じたことは、過去と現在はつながっているということでした。それは、一年前にもう一人の若い同姓の都丸牧師に会う機会が与えられたときの事です。都丸という姓は、群馬県の高崎というところに多いということだけしか私は聞いていませんでしたが、彼が両親から聞いたところによると、もともと新潟から来ていて、遡る事上杉謙信の時に、神事を司る武士であったとのことでした。初めて聞く話に、現在が過去と繋がっていることに驚きを覚えたことを思い出しました。

今回の金門の旅に招待してくれた黃長老は、金門の出身で、約五十年前私は台湾に宣教師として、彼は日本に行き歯科医として働いてきました。そんな彼と知り合ったのは、三十六年前原宿の台湾教会で一年間奉仕した時でした。現在、教会は川越に移っていますが、それ以来日本に帰国した折には、連絡を取り合ってきました。彼の案内で生家を訪れ、小さな村をくまなく探索しました。元々の生家は、砲弾で壊されてしまいましたが、新しく四階建ての家が建っていました。また、いまだにいたるところに戦争の跡が残っていて、砲弾で壊されそのままになっている家々、弾孔が残ったままの壁々、下校して掘った防空壕と、半世紀以上も経ったとは思えないほどの現実感でした。黃長老の実体験を通して、今まで繋がることのなかった金門の歴史を少しでも共有できました。

同行した李牧師は、この金門島から少し離れた小金門島が、五十八年前に一年間の兵役を過ごしたところで、彼の特別のリクエストで彼が行っていた教会を訪れました。今は更地になっていますが、門はここ、礼拝堂はと不確かな記憶を辿って示しながら、その教会の牧師とお祈りをしている時に砲弾が隣の部屋に落ちて命を落とすところだったと話していました。ここでの一年間に、台湾最高府台湾大学卒のプライドを老兵士によるいじめや嫌がらせよってズタズタにされたことが、その後、校園團契の総幹事、ボストン中華教会の主任牧師、華福の総幹事などを歴任し神の人として大きく用いられましたが、その土台はこの小さな島の一年間での辛くて苦い経験で培われ、小金門が李牧師にとって霊的な「里程碑」(マイルストーン)となったと証ししてくれました。

詩篇七十一:十八 
神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、
あなたの力をきたらんとするすべての代に
宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。

誰かが語り継いでいかないと、歴史は繋がりませんね。年取った私たちには、次の世代に語り伝える使命があります。自分がどのように生きてきたかを、人生の成功だけでなく、失敗も、そして一番大切な信仰を宣べ伝えていきましょう。


詩篇九十二:十四-十五 
彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、
青々として、主の正しいことを示すでしょう。


年を取ることに悲観的になる必要はありません。年を取ったので、若い時に、見えなかったものが見えてきます。年取ったとき人から「あんな老人になりたい」と言われるか、それとも、「あんな老人にはなりたくない」と言われるか。それは、今までの生きかたと思うのですが、これからでも遅くはないので、良い歳の重ねかたをしたいものですね。


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