親切な日本外交官/友愛会代表 張 文芳

二〇〇二年五月八日、瀋陽の日本領事館で起こったいわゆる「瀋陽事件」で、さまざまな反応が報道されているが、そのほとんどが外交官対応批判のネガティブ面が多かったようです。

「瀋陽事件」、正しくは「瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件」です。事件概要を簡単に説明します。

中華人民共和国瀋陽市に置かれている在瀋陽日本国総領事館に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの亡命者・金高哲一家など五人が駆け込みを画策、失敗し中華人民武装警察部隊に取り押さえられた際、総領事館の敷地内に無断で足を踏み入れていたこと、逮捕された亡命者が北朝鮮へ送還される可能性があったこと、その後、日中韓の三ヶ国協議で金高哲一家五人の韓国への亡命が認められた事件です。

同年五月二十九日号のニューズウィークのコラムでピーター・タスカ氏の「杉原千畝の良心を思い出せ」の表題の記事を読み、私自身が二十年前に出会った台北交流協会の外交官の対応を思い出しました。

杉原千畝の物語は有名だが、ご存じでない方のために、彼の業績についてピーター氏の文章の一部を引用してその概略を説明しましょう。

「一九四〇年、杉原がリトアニアで領事代理をしていたときのこと、当時ナチス・ドイツがヨーロッパを席巻していた時期で、生き延びるために亡命を希望するユダヤ人難民があふれていました。

だが米英両国を含め、大半の国々が難民の受け入れを拒否。杉原は領事館前に殺到する群衆を見て、東京の外務省に通過ビザ発給の許可を求めたが、外務省が拒否すると、杉原は独断で一日数百件のビザを発給し始めました。間もなくソ連が領事館の閉鎖を命じ、杉原は帰国することになったが、ビザの発給をぎりぎりまで続け、最後には動き出した列車の窓から発給ビザをばらまいたのです。

そのおかげで、数千人のユダヤ人がソ連経由で神戸にたどりつくことができました。サイモン・ウィーゼンタール・センターの報告によると、杉原が救った難民たちの子孫は現在四万人前後にのぼると言われる。・・・中略。

建て前からいうと、杉原千畝が「悪い外交官」だったことはいうまでもない。杉原は上司の指示を無視し、大切な同盟国の敵を助けて国益に背き、適切な手続きを経ずに、大量の外国人を日本に入国させたのだった。

それとは対照的に、瀋陽領事館の日本人職員は「いい外交官」だった。彼らは上司の指示を守り、所属に忠実だったのである。中国の武装警官の帽子を拾ってあげたことからわかるように、並外れて礼儀正しく職場を清潔に保つことにも熱心だった。・・・中略。

杉原千畝の功績がイスラエル政府に評価され、アジア人で唯一の「諸国民中の正義の人」賞を贈られたのは、一九八六年に彼が世を去る一年前だった。・・・中略。

米議会は、次のように杉原を称賛した。「指示に盲従するだけの顏の見えない官僚たちが忘れ去られても、杉原千畝の決断と優しさは人間の行動の最善の例として、末永く語り継がれるだろう。」・・・中略。

私の思い出の経緯(いきさつ)を述べます。

一九八〇年当時、台湾はニット製品の輸出が盛んで、私は台南県の大手ニット会社の台北オフィス日本市場及び製品の研究開発を担当していました。加工生産の自動化が進められ、業界では海外の自動ニットマシンが多く輸入され、我が社もブームに乗って自動化を図り、自社で使用する以外に機械販売を行なうべく、日本の著名メーカー製作のコンピューター制御ニットマシンの販売代理権を取得、加工業者の集中している南部台南県麻豆に販売会社を設立、私が販売活動の責任者としてその会社に出向していました。初年度から百万ドル以上の売上げで年々成長しておりました。

一九八三年十二月下旬に、東京晴海国際見本市で紡績機械展示会が開催されるのに合わせて、販売促進活動として、ニット業者二十人程度の見学団を組成して日本旅行を企画、メンバー全員は日本語が通じないので、私が通訳を兼ねて見学団を引率することになりました。その直前に前記のニット会社のところが出発当日空港に着いたとき、旅行業者のビザの申請洩れが判り、私は慌てました。旅行社の社員は旅行先の現地日本大使館でビザを申請取得すればよいとのアドバイスで、旅行途中、観光活動を犠牲にしてビザ取得を図ったが、香港、シンガポール、タイランドいずれの日本大使館でもビザ取得は不可能でした。理由は台湾と国交がないためです。

台北交流協会でビザ申請するため、折角の観光旅行を途中で切り上げ、急きょ台北へ戻るべく、途中香港に寄航したが、折悪しく台風が台湾を通過のため、当日の午前中に台北到着の予定が大幅に遅れ、台北の自宅到着が金曜日の夜になってしまいました。

当時、週休二日制はまだ実施されていなかったので、翌日の土曜日午前中にビザの特別交付を申請すべく、自宅で「旅行業者の申請ミス、わが社の日本製品輸入実績、日本へ渡航する目的、引率者の私が予定通り東京に到着しなかった場合、見学団メンバーに大きな支障を招くマイナス面、私の日本行きは日本にとってはプラス、便宜を取り計らってくれた場合の日本外交機関のイメージアップにつながる」などの内容を盛り込んだ陳情理由書を、ワープロがまだ普及していなかった当時、手書きで夜を徹して作成しました。

翌日土曜日の朝、例の旅行社のマネージャー同行で、当時台北市済南路に在る日本交流協会に出向き、ビザ申請書類に陳情書を添えて窓口に提出しました。当時のビザ申請手順では申請提出から交付まで三日から五日ぐらいかかり、それも月曜から金曜までが交付日、土曜日は申請受付のみで、交付は扱っていません。日本と台湾は国交がないので、手続上ではビザは「在香港日本国領事館」発行となっているが、実際は在台北の交流協会が発行しているようです。(これは私の臆測です。)

当日申請、即日入手できるなんて到底不可能と、半ば諦めていたが〝当たって砕けろ〟で厚かましく提出した次第です。応対してくれたのは三十代の青年係官で、立ったまま私の来意を聞いてくれ、陳情書を読んだあと、その場で「解りました。半時間ほどお待ちください。」と答え、三十分後にはビザを交付してくれたのです。同行した旅行社のマネージャーは、「こんなことは前代未聞、日本人は違いますね」と、びっくり仰天!

私たちは係官に厚く礼を述べ、当日十六時桃園空港発の中華航空東京行きの便に搭乗、翌日訪日メンバー一行を引率して予定通り見学スケジュールを無事終えました。

終わり良ければ全て良し、この間の不愉快な、慌しく緊張した経緯など、すっかり払拭され、よき思い出のみが残りました。

大使館や領事館ではビザ申請者の非常事態に備え、ビザを随時に特別発給できる規則があるのではないかと思われますが、私のケースは果たして緊急事態に値したのか、どうか?これが台湾の担当官だったら、きっと規則を理由にビザを発給してくれなかった、と思われます。相手国の個人企業の利益が、引いては日本の国益につながると、件の係官は本来の外交の意義をよく弁え、依頼者に便宜を図る判断を下したに違いないと思います。

ピーター氏はその文の中で次のように述べています。

「杉原が後日、ビザ発給の理由をこう語っている。『死を目前にして、助けを求めてきた人たちを無下に死なせるわけにはいかなかった。どんな処分を受けても、私自身の良心に従うべきだと思った』」。

杉原千畝と瀋陽の件の係官を比べるのはレベルが異なる、と言われればそれまでだが、規則を盾に断られても当然なのに、敢えてビザを発給してくれたあの交流協会の外交官は実に心の優しく、思いやりのある人に違いないと信じます。日本には今でもこのような人がいるのです。どこの国でも官僚主義の蔓延する役所や公務員の態度で顰蹙(ひんしゅく)を買うことの多い時代に、ささやかながら、まことに清々しい、心温まる出来事でした。

(漢字物語 講師)
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