高俊明牧師との出会い/理事長 都丸 正夫

二月十四日は、高牧師夫婦の結婚記念日です。二年前、台南にご夫婦をお訪ねした日が、バレンタインデーの二月十四日で、五十九回目の結婚記念日でした。その二年後、高俊明牧師は、その結婚記念日の日に、お亡くなりになりました。九十歳でした。

高牧師は、大きな犠牲を払って台湾の民主化に貢献された方で、私たち夫婦も大変お世話になりました。最初にお会いしたのは、先生が花蓮の長老教会玉山神学院の院長をされていた時で、ナビゲーターの台湾ワークキャンプを終えて、神学院を訪問した時で、もう半世紀前(一九六九年)のことになります。当時原住民の伝道者を育てていくことの大きな使命を熱く語っておられたのを思い出します。

しかし、山地伝道は徒歩で山をいくつも越え、人情もことばも通じず困難を極めました。そんな時の心の葛藤を詩に残しておられます。
「帰りたい が とどまるべきだ!
やめたい が やるべきだ!
いやだ  が やれ!
絶対にいやだ! が やれ!
もう倦きた! が やれ!
ああ 私の心は砕けた
千々に砕けた
神よ! 助けてください!」(詩集 瞑想の森より)
その熱意は、その後台湾に住む人々への愛へと向けられ、伝道に、また人々を苦しめている当時の政府に対して、台湾長老教会総会総幹事として、一九七一年の「国是宣言」、一九七五年の「我們的呼籲」、一九七七年の「人権宣言」と三度に渡って声明を発表しました。毎回遺書をしたためる覚悟を待ってのぞんでいました。政府は台湾長老教会の高先生たちの口を封じる機会を狙っていましたが、一九七九年に美麗島事件が起こって、その首謀者である施明徳氏を匿ったかどで、高先生は七年という刑を受け、投獄されました。牧師の守秘義務の権利を認めることもせず、国際的な非難を無視してでも、口封じをしたかったのでしょうか。一九七七年の声明には、「新しい独立した国(新而獨立的國家)」を唱っていました。

 「小さくても、貧しくてもよいのです。
台湾は、台湾でありたいのです。
自分自身の祖国を築きたいのです。」

この先生の献身的な行動は、台湾の良心として台湾の民主化に大いなる貢献を果たしてきましたが、その代価は刑務所で四年三ヶ月二十一日を過ごさねばならなかったことです。その後も、伝道のため、台湾民衆のため、台湾民主化のため、働き続けてこられました。

二月二十三日に高雄の教会で告別式が執り行われ出席してきましたが、先生のご希望で、自分に注目が集まるのをよしと思わず、告別式の通知も控え、キリスト教の墓園の近くの教会で少人数でと考えておられたようですが、式の一時間前に到着した私が目にしたのは、教会堂の一階二階も参列者で満員の状況でした。

先生から私が学ばせていただいたことの一つは、信仰は生活の中で生きて働かねば意味をなさないということです。若き日に、内村鑑三先生の影響を受け、無教会の高橋三郎先生とは生涯の親友の関係を持ちました。長老教会の牧師として、国民党の白色テロに対し台湾の良心として身を投じてきた核心のところにキリストへの信仰があり、日本の無教会精神が基礎にあったと思います。

先生の好きな聖句は、
『主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』のミカ書六章八節です。

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