母と私の新生/台灣基督教長老教會 濟南教會 長老 林良信

一九四五年三月、日本統治下の台湾が米軍の空爆を浴びている最中に、私は疎開先(台湾、台南県)で、生まれました。父添水は二十四歳の時に無教会の信仰書に接して以来、生涯信仰を全うしました。母赤羽千代は明治四十二年(西暦一九〇九年)長野県生まれ、救世軍で入信、奉天での救世軍の婦人伝道を目的とした教習所での和裁教師として満州へ赴任、昭和十六年父との縁談で東京へ戻りましたが、母方の親戚は父の健康不振を理由に多数が反対。母は徹夜の祈りの内にて、病身の父に仕える事を自分の使命と自覚し、翌年無教会の政池仁先生の司式によって先生の杉並天沼の御自宅で、結婚式を挙げました。昭和十八年に父と渡台、当時日台航路は既に米軍の潜水艦に脅かされており、両親より一便遅れて帰台された郭維租先生が乗船した『高千穂丸』は基隆の沖で撃沈されました。一九四五年八月に終戦、十月に中国本土からの軍隊が台湾を接収、翌々年の一九四七年に『二二八事件』が勃発、以来台湾は苦難の五十年を歩んで来ました。

幼少時代の思い出は鮮明で、父は胃病で教職を辞めて、無職の身となり、親子三人は狭い長屋で細々と暮らして居りました。我家の様子は他人の家庭とは変わって居りました。父は胃病のため、常に眉を顰めて深刻な表情で読書をし、午後になると堆肥を担いで野菜作り、養鶏、長屋の修理等で生計を営み、親子三人でリヤカーを引いて町の材木屋を往来しました。母は革靴を履いた事がなく、自分で縫った粗末な服を着て居りました。食卓は貧乏そのもので、玉子一個、魚一切れ、漬物と野菜少々が親子三人の一日分のおかずでした。見すぼらしい生活が周囲の嘲笑を招き、私は近所の子供から「雑種」、「あいのこ」と呼ばれて虐めの対象でした。

私が五才の時に、父は台大病院で胃の局部を切除します。低血圧のため、完全な麻酔が出来ず、手術の最終過程は無麻酔で終わり、手術室の外で半日以上待機していた母と私に聞こえてくるのは、父が日本語で「助けて」の悲鳴。地獄からの悲鳴でした。十四年後、台湾大学への入学の際に、私は台大病院で検診を受けました。幼い時の光景が蘇り、異国の台湾で瀕死の夫と幼子を抱えて、どれ程の辛酸艱難を耐え忍んできた母を思い、涙が溢れました。父の第一回目の手術は失敗に終わり、四年後に二回目の手術を受けました。胃の苦痛は緩和されましたが、替わりに腹部のガス発生の苦痛に生涯痛め付けられました。真冬になると激痛に襲われ、旧暦正月で周囲は楽しい正月気分ですが、父は寝込んで、苦痛と衰弱に耐えきれず、母と私を枕元に呼んで、懇懇と遺言を言い残す。父の様子が少し落ち着くと母は私を公園に連れて行きまして、蜜柑と少しの菓子を食べながら、子供達が遊んでいるのを眺めていました。母が公園へつれて行ってくれた理由を当時は理解出来ませんでしたが、それは我子にも他人と同様に少しでも正月の楽しみを味わわせるためと、母が自分の不安と悲しみを必死に抑える努力であった事が後で判りました。小学生時代の唯一のおもちゃは安いゴムのボールでした。三年生の時に、黄色い靴下が欲しかったけれども、どうしても買えませんでした。このような困窮の中で、父は幼い私が理解出来ない行動を多々していました。例えば、客人に対して我家の平素の食事の何倍もの御馳走で持て成し、結核の人を助けるために、大事な藤井武全集を友人に譲渡、教え子の父兄が倒産し、家財道具とお米迄差し押さえされる場面を見ては、父が自分の財布をそのまま、教え子のお母様に渡す父の捨身の行動に対して、幼い私はいささか憤慨しました。他人を助けるお金を省く事によって、我家は楽になる筈です。

両親の努力によって我家の生活もゆとりが出来て来ました。高校時代になると父との間に信仰問題による緊張関係が始まり、父が召される迄緊張関係が継続しました。良き信仰を持つ事は私に対する両親の最大の念願でした。小学校四年生の時に聖書を与えられ、日曜日は教会又は父の集会に連れられて参加しましたが、私の本心はそれを努めて避けたかった。原因は話しが難解、又興味も無く、重苦しい雰囲気が耐え難いためでした。将来家を離れて、明るい環境で生活出来ることを願って居りました。私の念願は叶えられて、親元(台南)を離れ、台湾大学の商学部(台北)へ入学しました。学生時代はルーテル教会の学寮に下宿し、日曜日は父の親友、許鴻謨牧師が牧会していた濟南教会の礼拝に参加し、聖書も読んでおりましたが、これらを知識の一環とし、生活のパターンとして扱って居りました。信仰の必要性に気付いていないからです。休みで台南へ帰省の都度に、父は私に信仰の話を懇々と語ってくれますが、私は全く聞く耳がなく、父との対話が苦痛でした。父は私の反応を察して寂しそうでした。母はなにも話さず、静かに暖かく見守ってくれ、時々聖句を書いた手紙を送ってくれました。

私は学業を終了して、日本の商社兼松の台北支店に入社し、機械の仕事に従事しました。経営者を相手にした華やかな仕事、表現力、行動力は若干鍛えられましたが、反面、人間性の危険な場面に曝されました。内面の矛盾と葛藤が始まりました。誘惑に飲み込まれる危険を意識して、自力で食い止めたい意欲の反面、弱い自分に絶望しました。私は日曜日の礼拝を欠かした事がなく、聖書の注解書も勉強しましたが、役立ちませんでした。父は私の状況を察し、台南へ帰省の都度、諦めずに信仰の話を語ってくれます。私も父の愛を受け入れる努力をつとめましたが、心構えが出来ずに、平行線で終わりました。これは私の生涯最大の悔いです。母はなにも言わずに、私が大好きなおでんを作ってくれます。家を離れる際には必ず、私の仕事、嫁、孫のため、最後は私の魂の救いに涙し、懇懇と祈ってくれました。この様な状態が約十年間続き、その間、母の温かみが私の最大の支えでした。

一九八二年に、変化が生じました。それは父の死です。

父は七十五才の誕生日を前にして足が激痛に襲われ、十一月一日に台南から台北の病院へ入院、翌年一月二十一日の終焉までの計八十二日間、私は生まれて初めて、父を心から愛することが出来ました。脊髄のリンパ腺癌が腹部に転移、全身が激痛に襲われて、鎮痛剤が無効になり、本人は早く召される事を望んで居りましたが、苦痛を耐え忍んで、遠路遥遥東京から駆けつけた石倉啓一先生に自分の罪を告白し、且つ復活への確信を表明した翌日、召されました。父の臨終は、戦士が奮戦して最後の勝利を得、凱旋してきた壮烈きわまりない有様でした。畏敬と悲しみを持って父と別れました。但し、骨と皮となった父の哀れな姿を見ながら、生涯神を愛し、生涯捨身で隣人を愛した善良な父が、なぜ神は病苦の鞭で生涯父を打ち続けて来たのか?父の苦難の人生は果たしてどのような意味を持つかとの深い疑問を私は持ち始めました。

父が亡くなった後、母は私どもと約一年間台北で生活しましたが、都会の生活に馴れず、台南へ戻りました。私は隔週毎の金曜日の夕刻に台南へ戻り、土、日母と一緒に過ごして、日曜日の午後に台北へ戻る生活を続けました。その間、私の内面の葛藤は益々激しくなり、遂に仏教の世界に踏み込みました。仏教の経典を暗誦耽読し、経典の講義をも聴講しました。表面上のクリスチャンで、信仰を捨てたのが実態です。内心が更に苦しくなり、パウロの叫び『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう』(ロマ書七章二十四節)が正に私の実態です。この悩み事をだれひとりにも打ち明けていませんでしたが、不思議に、母は私の苦境を察して、朝食を二年間断食して祈ってくれた事を母が亡くなった後、知りました。

一九八八年早春、母は肝硬変で入院し、容態は悪化する一方、本人も心の準備を完成しつつ、周囲に感謝を表明し、最後の挨拶をしながら、病苦を耐え忍んで居りました。六月始めのある夜中に病院からの緊急連絡を受けて、病室に駆けつけました。母は私の手を固く握って一生懸命話しかけるが、呼吸困難のため聞き取れず、母が繰り返し話しかけてくれて判明したのは、朦朧の内に、ある真っ白い衣服を着けた方に連れられて、非常に美しい所に行き、そこは紫色の花が満開で、父とも再会した事を私に訴えて居りました。衰弱した母は輝いた表情で、一生懸命訴えてくれました。私の終生の悔いですが、当時私はその場で、母の真意を汲み取る事が出来ず、夢事扱いで、母をなだめましたが、翌朝から母は昏睡状態に転じて、六月七日に息を引き取りました。つまり、あの夢事は母が意識鮮明の状態で残してくれた最後の言葉でした。

母なき後の悶々とした日々を送って居る内に、母の夜中の出来事を思い出しました。それは、最愛の我が子に対する復活の証しを全うしてから生涯を閉じた母ではないか?故郷を後にして、海を渡り、異国で貧乏と病弱の夫を仕えながら、命がけで復活の真理を証ししてくれた母ではないか?つまり、母の生涯の最終的使命はこの証しであった。私は病苦の鞭に打たれ続けて来た父、あの骨と皮になった哀れな父の姿を思い起こして、十字架につけられたイエスを思い起こしました。私は声を出して泣きました。この罪深い反逆児を救うため、神様は父と母の貴重な人生を通して、豊かな愛を与えて下さり、贖(あがな)いと復活の真理を掲示して下さいました事を一瞬の内に悟りました。この自分はパウロが仰った、身代金を払って買い取られた貴重な存在であることを悟りました(コリントの信徒への手紙一 七章二十三節)。私の人生はその日を境にして、変わりました。私は依然として、罪深い存在ですが、もはや迷いません。神様の憐れみに縋(すが)りつつ、残された人生を神に捧げる決心です。


一九九七年十月記

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