受けるより与える方が幸なり/理事長 都丸正夫

使徒言行録二十章三十五節

知らない人を助ける(Helping A Strenger Ranking)ランキングで、日本は百四十四ヵ国中百四十二位で、寄付のランキング(World Giving Index Ranking)でも、百十四位でした。ちなみに「人を助ける」で第一位は、リビアで人口の八十三%が参与していて、イラク、クエートと続いています。寄付については、第一位はミャンマーで人口の八十八%が捧げています。次にアメリカ、オーストラリアと続きます。東日本大震災のとき台湾の人たちは、一位のアメリカとほぼ同額の二百億円以上もの義援金を集めたことはよく知られているとおりですが、大卒の収入が日本人の三分の一にもならない人たちからの義援金だったとはあまり知られていないでしょう。なぜ、台湾人は二百億円以上もの義援金を送ってくれたのでしょうか?

さて、日本人は冷たいと言う外国人もたくさんいます。寄付にしても、個人が物惜しみせず出資すると言う文化は形成されていないように感じます。なぜなのでしょうか?子供の頃からよく耳にした言葉がありました。それは、「人に迷惑をかけてはいけない。」という言葉です。積極的には、自分のことは自分できちんと管理し、人の助けを受けないようにと言う意味にとれますが、消極的には、自己管理のできない人を助ける必要はないともとれます。伊達政宗は、「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる。」といったそうですが、ともすると日本人は、仁よりも義のほうに傾いているのかもしれませんね。イエスの言葉の中に、そんな日本人には耳の痛い言葉が聖書に残されています。「受けるより与える方が幸なり」と言う名言です。この言葉は、イエスの生涯を書き記した四福音書にはなく、使徒行伝の中でパウロがイエスの言葉として引用したものです。惜しみなく与えて生きる方が、自分のことだけに人生を費やす生き方より豊かに幸せに生きられると逆説的なことを言っています。

聖書には真理を逆説的に説明しているところが沢山あります。

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」(箴言十一:二十四)
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。」
(マタイ五:三)
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
(マタイ五:四十四)
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」
(マタイ十六:二十五)
「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」
(マタイ二十:十六)
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり。」   (マタイ二十:二十六)

では、与えるほうが幸いとは、一体なにが幸いなのでしょうか?


第一に、私達の価値観が物質的なことだけにとらわれなくなること。ある牧師が書いた『窮的只剩下錢』と言う本が出版され、多くの人の共感を呼びましたが、お金だけ残ってあと何もなくなってしまったと言う悲劇を多くのお金持ちと言われる人たちから観察し、お金は必要ですが、お金と同じように、否それよりも大切なものも存在していることを訴えています。そのことをイエス様は、次のように語っています。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マタイ十六:二十六)


第二に、自己中心な生き方から開放される。英語で罪は、Sinですが、真ん中にI(自分)があります。生まれついてから、私たちは自己中心的な生き方しかしてきませんでしたし、それしか出来ませんでした。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」(ロマ七:十五)とは、パウロの告白ですが、さらに「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ二:四)と勧告しています。


第三に、御霊の実である九つの品性を育てる土台となる。イエス様は自分がこの世に来た理由を、こう述べています。「私が来たのは、仕えられるためではなく、人に仕えるためである」と。
人に仕えるには、時間やお金、労力などの自分自身を喜んで捧げていく必要があります。仕えていく過程の中で、キリストに似た者とされ、御霊の実を結ぶようになるのです。

惜しみなく与えることを実践して、イエスの言葉を実現しましょう。

 

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