美しい場所 玉蘭荘/書道講師 沈富強

今年は旧正月を過ぎた頃から、テレビはどの局でも武漢肺炎(新型コロナウイルス)のニュースばかり、その上マスク不足、アルコール不足、はたまたクルーズ船の集団感染...そんな中で私の心に思い浮かんだ聖書のメッセージがあります。
「生まれる時、死ぬ時                 
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」
(旧約聖書 コヘレトの言葉 三:二~十一)
また宋の詩人蘇軾の詩にもこのような一節があります。
月有陰晴圓缺,人有悲歡離合,此事太難全。
(月には曇った時、晴れた時、丸い時、欠けた時があり、人には悲しみ、喜び、別れ、出会いがある。これは昔からのことで、完全無欠なことはこの世にはないのだ。) 

 玉蘭荘で会員の皆さんと書道の時間を共に過ごすことは、とても意義深いことです。こちらの先輩方はその長い人生の中で、第二次世界大戦、日本統治時代、白色テロ、それに度重なる流行病、気候変動、火山噴火、地震、津波、洪水、森林火災、戦争、貿易摩擦など...幾多の困難を乗り越えてこられました。神のみわざは私たち人間には理解することができないのです。
ある本にはこんな一節があります。
もっと黙想しましょう、それが力の源です
もっと読書しましょう、それが智慧の礎です
もっと愛しましょう、 それが生命の悦びです
もっと静かな時間をもちましょう、それが心の温室です
もっと働きましょう、 それが次へのステップです
もっと遊びましょう、 それが若さの秘訣です
もっと笑いましょう、 それが心の歌声です
もっと祈りましょう、 それが魂の更新です
もっと耕しましょう、 それが収穫の始まりです
もっと耳を傾けましょう、それが人の心を掴むわざです
もっと聖書を読みましょう、それが神様を知る方法です

 玉蘭荘が、周りの人々にどれほどの祝福をもたらしているか、はかり知ることはできませんが、その活動の念頭には三つのポイントがあると思います。
一、何をすべきか
二、何ができるか
三、どのようにすべきか
そしてすでに成しえていることが二つあります。
一、目標として目指す方向がわかっている
二、人の心を動かし、集めている
何が玉蘭荘をひとつの家族とならしめているのでしょうか。

一、イエスを信じることでひとつの家族となった
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」
(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 三:二十六)
二、互いを愛することでひとつの家族となった
「その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互いに愛し合うべきことである。」(新約聖書 ヨハネの手紙一 三:二十三)

三、同じ望みをもつことでひとつの家族となった
「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、私たちはキリストにあずかる者となるのである。」(新約聖書 へブライ人への手紙 三:十四)

 玉蘭荘で起こることはみな自分たちのこと、自分たちは家族であり『互いに肢体』であるのだから、他人に頼らず干渉されず、自分たちで解決しているのです。
ある高僧が悟りについてこのように語りました。
花の香りをかいだなら、その香りをたよりに花を探すでしょう
大自然の音楽を耳にしたなら、その虫や鳥の声、滝の水音を楽しむでしょう
もし花の香りも水音もなければ、人はどうしてそれらを見つけることができるでしょう
私たちに必要なのは、クリスチャンの香りを放つことではないでしょうか。

またこんな話もあります。あるところに住職と弟子がおりました。ある年の冬、二人は壊れかけた寺で風雪をしのいでいました。弟子が言いました。「和尚様、私は一生懸命托鉢の修行に励み、仏教を広める努力をしておりますが、断られてばかりですっかり自信を失ってしまいました。もう修行を諦めようかと思います。」
すると住職はこう言いました。「布団に入りなさい。ほら、体が温まって来ただろう。布団は自ら熱を発しているわけでもないのに、お前の体を温めてくれる、なんと不思議なことだろう。実は布団は外の冷たい空気を遮っているだけで、そのぬくもりは、おまえ自身の体から発せられているものなのだよ。」それを聞いた弟子はついに悟ることができました。
この布団の教えが、今日の玉蘭荘の実りを導いたのではないでしょうか。皆が家族となり、ともに放つクリスチャンの香り、賛美歌の調べが人を引き寄せたのです。
前述のふたつの話は団結力、温もり、平和、充足などが実る過程を説くものです。砂の刺激があってあこや貝が美しい真珠を生み出せるように、亡国の刺激があって詩人が人の心を打つ詩を書けるように、苦難の道のりがあってモーセが出エジプトを果たせたように、ホルモンの刺激があって子供たちが大人へと成長できるように。
私たちは神様と関わることを避けることはできません。神様に与えられた刺激があってこそ、道を見出すことができるのであり、信じる心があってこそ更に高みへ羽ばたく勇気を得ることができるのですから。
玉蘭荘の皆さん、活動日に毎回お会いすることはできませんが、私の心はいつも皆さんとともにあると信じています。

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