居場所のないクリスマス  --115号

ルカによる二章一~十七節

うすきみどり


 クリスマス、恵みのときをお過ごしと思います。玉蘭荘でも二十四日のクリスマスイブにクリスマス礼拝や祝会がもたれますが、皆様楽しみにしておられることでしょう。


 私たち国際日語教会の教会学校でもクリスマス劇をしますが、来週が本番と昨日は練習にも熱が入りました。毎年このシーズンにはクリスマス物語をあちらこちらの教会で見たり聞いたり、一緒に演じたりしています。


劇の中では宿屋さんが登場します。役柄も色々です。以前ある教会では伝説になっている宿屋がありまして、宿屋の役をそこの牧師がなさいました。非常にまじめな牧師でしたから、忠実に役をこなそうとして、とにかく断らなきゃいけないと、ヨセフとマリアが訪ねてきた時に、ものすごい剣幕で「うちには泊まらせる部屋なんか残ってない、出ていってくれ」とにらみつけるように言ったものですから、ヨセフとマリア役をした子ども達は怖くなって、それ以上台詞が出なくなってしまいました。以前青年会の劇にもその牧師は、やくざ役で登場して、すごい迫力だったそうで、以来その牧師にやくざと宿屋の役だけはやらせてはいけないと言われるようになりました。


そうかと思うと、やさしい宿屋もあります。「いやあ、うちには泊める場所がないんだが、家畜小屋ならあいているよ。そこでよければ案内しますよ」というような宿屋です。


このように脚本や役者の思いで色々な宿屋が登場するのは、実は聖書のクリスマス物語にはどこにも宿屋という人物は出てこないからです。そして馬小屋、家畜小屋という言葉も一切ありません。ルカ福音書に二カ所、飼い葉桶に寝かせた、あるいは飼い葉桶に寝ていると「飼い葉桶」という言葉が出てくるだけです。


「飼い葉桶」の言葉自体がもう最近の子ども達には分らなくなりました。動物のえさ箱などと説明をしなければなりません。


この「飼い葉桶」という言葉から馬小屋と長らく言われてきました。ところが、当時庶民の家にいる家畜と言えば牛やロバ、羊でした。馬はどちらかといえば農作業を手伝うというより、王や貴族の持ち物で、戦闘用でした。ですから馬小屋ではなく、そうではない動物たちという意味で家畜小屋と最近では言われるようになりました。


豚は聖書の世界では汚れたものとして食べる事を禁じられ、ユダヤでは蔑視された動物でしたので、ここにはいなかったと思われます。ところが台湾にきて去年ある教会でおもしろいものを見つけました。毎年そこの飾りとしてある家畜小屋の模型には干支にちなんだ動物が並ぶそうですが、今年は豚年でしたので(日本では猪)かわいい豚が並んでいました。ユダヤの地ではあり得ない風景だな、でも世界中色んな所にイエスさまは来てくださるのだから、これは来るべき神の国の姿としていいなとも思いました。


また、このシーンのお人形や絵本の挿絵を見ると小屋のようになっていますが、当時の庶民の住居は内部を二つに仕切って、半分は家族のために、そして半分を家畜のために用いていたそうです。家畜も大事な家族だったのです。最近もうちの教会の方から話を伺ったのですが、結婚した当時、台湾の夫の田舎では人間よりも家畜の方がいいものを食べていたそうです。お米を煮込んで栄養のあるでんぷん質のところを皆家畜のえさとしてあげ、残りのすかすかの米粒を人が食べ、妊娠中の栄養をつけなければならない時は大変だったと話を聞きました。その方も最初嫁いで着た時に、土間の家に夫が藁を敷いて寝床を作ってくれたそうで、この方は聖書時代のマリアの状況や気持ちをくみとって信仰生活を続けてこられたのだろうなと思わされた次第でした。


これだけ分厚い聖書の中でたった一節しかないこのルカ福音書二:七「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」は非常に大きな一節です。救い主であるイエス様のすべてをこの誕生シーンの一節のみで表わしているようにも思われます。日本語では「泊まる場所がなかった」とありますが、訳によっては「彼らのための場所がなかった」とあります。英語ではthere  was no room、北京語では客店裏没有地方とあります。Roomとは部屋という意味ですが、場所、特にあいている場所という意味があります。「宿屋、客間には彼らのための場所はなかった」という意味です。ギリシャの原語でもこういう意味ですが、また比喩としてその人の社会でのステイタス、立場、機会、権利という意味でも用いられるようです。となれば「客間には彼らの立場・ステイタス、機会や権利がなかった」ともとれるのです。


 客間...人と人との出会いの場です、コミュニケーションのある空間...そこにはヨセフとマリアと胎内のイエス様のための場所がありませんでした。代わりに与えられたのは、飼い葉桶のある場所、つまり普通のコミュニケーションからはずされた場所でした。


「はずされた場所」にいること、仲間からはずされる、いじめにあう...それらは当事者になって初めてわかる痛みです。日本では子ども達、青年達のいじめなどによる問題の話題が後を絶ちません。毎日日本のニュースでは子ども達の悲しい事件が絶えません。


四年前には長崎で中一の生徒が幼い女の子を突き落として殺した事件が起こりました。その傷ついた街、長崎ではあるバプテスト教会の牧師は何とかして心痛める少年少女達、青年達をそうした心の闇から救い出したいと思っていました。そして中高生達が教会前の河原で騒いでいるのを目にして、彼らに近づき恐る恐る声をかけたそうです。するとその中高生は家出をしていてそこで「野宿」をするとのことで、その牧師は「何か必要があったら教会にいるから声をかけてくれ」と言い残しました。すると真夜中になってチャイムが鳴り、その中高生達が「今夜泊めてください」と言ってきたそうです。一晩泊めたことがきっかけで、この牧師は翌日から彼らの家族や学校とのやり取りを始めることになったのでした。そしてどうして彼らが家に帰りたくないのか、帰れないのか、親子や教師との関係に傷んだ姿を目にすることとなるのです。数ヶ月のうちに十数人の家出少年少女が教会に入れ替わり立ち替わり出入りしたそうです。そのうち三、四人は数ヶ月教会に滞在したそうですが、多くの子ども達が心の面で傷み傷つき、心から「愛されたい」という気持ちをもっていたのでした。


ですから、その教会で歌っていたこんな歌が、滞在していた心に傷のある青年たちの胸をとらえたそうです。


今日はその曲を聴いてみたいと思います。これは、「君は愛されるために生まれた」という歌で私たちの教会の子ども達も大好きな歌です。もともとこの曲は韓国で作られ、教会の枠を越えて皆に親しまれ愛されている曲となっているようです。


「君は愛される為に生まれた、君の生涯は愛で満ちている...

永遠の神の愛は我等の出会いの中で実を結ぶ...君の存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう...」


その長崎の牧師は教会の青年や子ども達がこの歌を歌うのを聴いて、彼らの目から涙が流れるのを何度も目撃したそうです。そして私たちの社会には限界があり、その現代の社会の軋轢の中で苦しんでいる彼らが「神はあなたを愛しておられる」というメッセージを必要としている事、またそれは教会やキリスト者たちにしか伝えていけない事を思い知ったと、その牧師は語っています。


「彼らのための部屋はなかった」「彼らの居場所がなかった」という一節はまさに現代の私達に問われています。私達自身が居場所をもてない状況にあったり、また場所を閉ざす立場にいたりもします。しかしはずされたマリアとヨセフは別の場所を得て、そしてその貧しい小さな場所で救い主がお生まれになられたのです。


そして救い主がお生まれになられたその新しく与えられた小さな場所は、それまではずされていた者達にとっての場所でもありました。八節以降には羊飼いが登場します。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」と。のどかな田園風景でしょうか。野宿をする羊飼い。思わずこの長崎の牧師が体験した家出した若者が「今夜ここで野宿するつもりだ」という言葉と重なりました。最近もある台湾の方から、豊かだと思っていた日本へ行ったときに、たくさんのホームレスの方がいてびっくりしたという言葉を聴きました。この傷ついた青年達だけではなく、私たちの身近に「場所のない」人たちがたくさんいるのです。


宿屋には泊まる場所がありませんでした。しかしその客室というコミュニケーションの真ん中からはずされた場所に、主はあえて神のひとり子をおつかわしになられたのです。宮殿やりっぱな部屋ではありませんでしたが、代わりに外の仕事であった、汚れた姿の、見下げられていた仕事の羊飼いたちが気兼ねなくこの場所を訪れることができたのです。彼らが最初に招かれるような場所にイエスさまはお生まれになったのです。


まさに七節「彼らの泊まる場所がなかったからである。」はイエスさまは誰のためにこの世に遣わされたのか、その後の生涯、またその目的を象徴しているのがこの誕生のシーンであり、飼い葉桶の中なのです。


クリスマスの時期、招いたり招かれたりたくさんの機会があるでしょう。あえて寂しい方と共に皆で集まってお祝いする意味を深く受け止めたいと思います。      アーメン

(牧師 十二月十七日の礼拝より)
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