見て信じる(Seeing is Believing) / 理事長 都丸 正夫

「百聞は一見に如かず」という諺がありますが、この言葉の出典は「漢書」で、充國が「百回聞くよりも一度見る方が確かです。兵略は現地から遠く離れていては計画を立てにくいので、私が直ちに金城に馳せ、その実際を地図に描いて方策を申し上げたいと思いますが、お許しいただけませんか」と言ったというところからきています。確かに目で見なければ、確認できないことも、正しい判断ができないこともあります。しかし、見てもわからないこともたくさんあり、むしろ見えないところに大切なことが存在しているのも事実でしょう。金子みすずの「星とタンポポ」の詩に、こんなのがあります。
「青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。」

人はそれぞれに自分の物差しを持っています。それに合わないもの、計算できないもの、或いは、眼に見えないもの、知らないものを往々にして否定したり、遠ざけたり、無視することがあります。しかし、この世の中は、自分の考えが及ぶことと及ばないこと、見えるものと見えないものの二つで一つなのだと言っているのでしょうか?

信仰は目に見えないものです。聖書のヨハネの福音書というところに、イエスの最初の奇蹟と第二の奇蹟の出来事が書かれてあります。第一のものは、イエスと弟子たちが、カナという町で結婚式に参加したことを描いています。そこである事件が起きました。用意してあったワインが足らなくなったのです。親戚の結婚式だったのでしょうか、そこにはイエス様のお母さんも出席されていて、手伝いをしていたようです。
そこで、彼女は自分の息子のイエスに、何とかしてと頼みます。イエスは、からの大きな壺六つに水をいっぱい入れるように命じました。水をいっぱいに入れると、それがおいしいワインになっていたのです。その時、既にイエスに従っていた弟子たちは、どんな信仰を持っていたかというと、弟子たちは、「水をワインにした奇蹟を見て、イエスを信じた」とあります。弟子たちの信仰は、「見て信じる」ものでした。

二番目の奇蹟も、カナで起きました。今度は、カナから離れたカペナウムで、息子が重篤になっている役人がイエスの噂を聞いて、息子を治してもらいたいと、カナにいるイエスのところに駆けつけました。一緒にカペナウムで、息子を助けてください、と言うその役人に、イエスは「あなたの息子はもう治った」との言葉をかけたのですが、役人はその言葉を聞いて信じて、家に帰る途中に息子が、治ったとの報告を受けたのです。
彼の信仰は、次元の違うもので、「見て信じる」(Seeing is believing)ではなく、「信じて見る」(Believing is seeing)というものでした。
信仰は、「目に見えるものによらず」とも、聖書の他の箇所で言っています。事実、私たちは、信頼、愛、希望、平安、寛容、親切、思いやり、友情、誠実、忠実など目に見えないものの存在を信じて生きていますね。ここで一度、立ち止まって、目に見えていないものに心を馳せてみてはどうでしょうか?

では、どうしたら目に見えないものを意識していくことができるでしょうか?ゴーギャンというフランスの画家が、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」から脱出しようとしてタヒチで生活をしているときに、興味ある絵を描きました。その絵のタイトルには、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 私は、誰なのか?
(一八九八年)」とあります。これらの三つの質問からまず私たちの心を傾けてみたらどうでしょうか?

『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。』
(新約聖書 コリントの信徒への手紙二 四:十八)

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