信仰と希望と愛/大川四郎 宣教師

 パウロはコリント人の手紙十三章十三節で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」といいました。この聖句は古今東西の人たちに大きな影響をもたらせたものだと思います。私もこれに始まる数節は特愛の聖句で、私の暗唱聖句のトップテンに入るものです。

 「信仰」と「希望」と「愛」は仲の良い「三つ子」のようなものであります。日本人の名前でいいますと、「信子さん」「望さん」「愛子さん」というようなものです。私の住所録を調べますと、そういう名前が沢山ありました。台湾ではどうでしょう。台湾でもきっとあることでしょう。

信仰と希望と愛の根源を辿りますと、イエス・キリストを通して神に至ります。なぜならこれらは、神に根拠があるからです。

信仰も希望も愛も、神なくしてその本質を知ることができません。信仰と希望と愛は、イエス・キリストを通して私たちのところに来ました。イエス・キリストの十字架は、神と人との間に建てられた「神の愛」の徴・シンボルであります。その十字架の愛のゆえに、私たちの信仰が生まれて来るのであります。十字架のキリストを通して未来に対する私達に希望が与えられるのであります。

私はかってあるキリスト教の学生寮のチャプレンをしていました。その学生寮にかつてAさんが、職員として働いていました。その人の顔は無残にも焼けただれていました。それは遡ること、二、三十年も前のことです。その時のことを記した彼女自身の手記がありますのでここに引用します。

「二十一歳の冬、顔や頭や手足の一部も濃硫酸でやけただれ、片耳はとけてしまい、片目もつぶれかけていて、治る希望がないと思われる治療に明け暮れていた二年近くの病院生活、死ねたらと考える事が唯一の慰めだった惨めな絶望の中で、奇しくも与えられた聖書のイエス・キリストの言と愛に救われ、聖書の約束の言葉だけが希望であり、ひたすら信じ従ってこの世の生を行きたいと願い・・・」

【関根正雄集会の「おとずれ」誌より、本人の文のまま】
この文章の中に「信仰と希望と愛」ということが出て参ります。出てくるだけではなく、これら三つの言葉が彼女の人生を絶望から希望へと百八十度大転換させ、新しい道を歩み始めたのであります。

彼女は「ミス青森」とでも噂される美しい人でした。美しく仕事もできる彼女を、同僚の女性が妬んで濃硫酸をかけたのでした。Aさんは退院後、キリスト教信仰の道を歩み始めました。しかし、どうしても同僚の女性を心から愛することができず苦しんだのです。ある時、教会の牧師から、あなたは「あなたの敵を本当に愛することができますか」と問われ、「愛します」と答えたのが、新たなAさんの苦しみの始めとなりました。

日本語に「ホンネとタテマエ」ということばがあります。Aさんは、建前では聖書の言葉どおり、汝の敵を愛すると答えたのです。しかし、その言葉とは裏腹に、心の中を深く探ってみると、本当は同僚の女性をなかなか愛していない自分に気が付いたのでした。

或る時、Aさんは決心してその同僚の女性を訪ね、「あなたを本当に愛せない私を赦してください」と言ったというのです。同僚の女性は最初は復讐でもされるのかと驚きましたが、やがてAさんが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」(マルコによる福音書十二章三十三節)と真心から自分を愛そうとしていることを知るに至りました。

やがて、Aさんはその女性と一緒に暮らすことを決心し、それを実行するようになりました。それは完全な赦しと和解への道でもありました。

私ははじめに「信仰と希望と愛」というものが、神と人間との間に働く三つの作用であると説明しました。しかしそれは同時に人間の日々の生活において、或いは私と他者、私と隣人の間にもおいても働くものであるということを申し上げたいのです。

信仰と希望と愛との関係は、私達の生活の時系列の生き方にかかわるものです。時系列というのは、過去から現在そして未来へと繋がる私達の日々の生き方です。私達が自分の過去を振り返るとき、完全に潔白な人はいるでしょうか。私達は自分の知っている罪は確かに知ることができます。しかし自分の知らない罪、自分でも気づかない自分の罪や悪があるのをどうして知ることができるでしょうか。他人に言われて初めて自分の欠点、自分の悪かったこと、自分の罪に気づかされることもあります。でもそんな友人もいなければ、私達は自分の罪や悪を自分の知らないまま過ごして死んでゆくことになります。

マタイによる福音書五章に「心の清い人は神を見ることができる」という言葉があります。信仰というのは、そういう私達の過去から現在に至る私達の罪を、イエス・キリストにあって神に赦していただくことであります。したがって信仰とは、過去から現在に至る私達の生きる根拠であるのです。心の清い人は、イエス・キリストを通して神を見ることができるのであります。

第二の愛とはどういうことでしょうか。それは私達の日々の生活、日常の営みの中にあるといえるのです。私達の日々の生活は、自分の仕事や家庭のこと、或いは趣味といったこと、自分のため、自分本位に費やされているのであります。そこでは私達は自己中心的に生きています。

自分のため、自分の家計のために働く。自分の家族のために自分の時間を費やす。あるいは自分のいろんな趣味のために時間を割くというのが、私達の日々の生活、時間の過ごし方ではないでしょうか。これらは全て「自分を愛する」ということであります。これは決して悪いことではありません。先ほどのマルコによる福音書十二章三十三節の後半に、「隣人を自分のように愛する」という言葉があります。ここでは「自分を愛する」ことは自明のこととして肯定されています。私達は安心して自分のために時間を費やしてよいのであります。

特に老後の生活というのは、そういうことが何の制約なしにできる時がきたといえるでしょう。それは自分の心が自分に向いているということです。大いに自分のために時間を費やす、それは結構なことであります。

唯一つここで注目しておきたいことがあります。それは「自分と同じように隣人を愛しなさい」と福音書でイエスは言っておられることです。私の隣人とは誰でしょうか。原理的には私を除くすべての人がその対象者であります。私達が隣人を愛するとは、隣人に対して私達の心が開いていることです。全ての人を愛することは物理的に言って無理です。しかし、世界中の問題を抱えている人のために祈ることは可能です。そしてまた、私達の出会う人たちで困っている人、苦しんでいる人に、慰め、励ますことはできるでしょう。懐の許す範囲で経済的支援もできるでしょう。愛の言葉、祈ること、愛にはいろんなかたちがあります。隣人を愛することは結果としては、イエス・キリストを愛し、神を愛することになります。

私達の主イエスは、「イスラエルの失われた人たち」(ルカによる福音書十九章十節)を訪れ、慰め、癒し、励まされました。それがイエス・キリストのこの地上での主たる仕事でありました。私達は到底イエスのマネはできませんが、少なくとも常に私以外の他者・隣人に対して心を開き、必要であれば時間とお金を捧げて日々の歩みをなすべきであります。これが私達の日々の歩み、現在というとき、日々なすべき愛の務めといえるのではないでしょうか。

最後に「希望」です。信仰が過去から現在、愛が現在の私達の生き方の指針であると申しましたが、希望は現在から将来に関わる事柄であります。先ほどのAさんの手記の中に、絶望的な生から希望の生へと換えられたということがありました。一変したということであります。それは古い私が死んで新しい私に生まれ変わったということであります。そこには何らかの気づきがあります。新しい世界、新しい展望が開かれるということであります。Aさんは言います。「惨めな絶望の中で、奇しくも与えられた聖書のイエス・キリストの言と愛」が彼女を希望へと導いたのです。絶望が希望へと転換するのは人間の努力によっても招来するかもしれません。仏教的には「悟り」という言葉がそれに相当するのかもしれません。

私は高校三年の時に洗礼を受けました。その時、イエス・キリストの出会いを通してまったく新しい世界を発見し、涙がとどめなく出てきました。目の前が一新されました。それが私の回心であったと思います。このような希望というのは、日々の営みの中に生きているものであるのか、それとも失われるものなのかは大事なのであります。

有名大学に入学したいと願っていて、それが実現すればそれは希望がかなえられたということであります。しかしその希望がかなえられても、その後も努力しなければ、最後は役に立たない人間として終わることになるでしょう。希望というのは死のかなたにまで至るものでなければ意味がありません。パウロはロマ書八章十八節から二十五節まで、人間にとって窮極的な救いの問題をそこに記しています。ある注解者は、ロマ書三章二十一節~二十四節が第一の救いだとすれば、このところは第二の救い、窮極的な救いが記されているといいます。それは人間にとっての希望の根拠だといってよいでありましょう。私はこの箇所を暗唱し、何百回、復誦したことでしょう。註解書を紐解くまでもなくその意味は自ずと通じてきます。
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