「隣人を自分のように愛しなさい」/呉淑金牧師

ルカによる福音書第10章の25~37節には、ある律法の専門家とイエスのこんなやりとりがあります。彼はイエスを試そうとして「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。イエスが「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返すと、彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」と答えます。それを聞いたイエスは「それを実行しなさい、そうすれば命が得られる」と言いました。

律法の専門家はさらに「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねます。「隣人」とはヘブライ語では自分と関わりのある人のことを指します。

レビ記19章18節にはこのように書かれています。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

「隣人」とは「自分の同胞」、つまり自分と同じイスラエルの民を指しています。

また同33~34節にはこのように書いてあります。

「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留するものをあなたたちのうちの土地に生まれたもの同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」

つまり「隣人」には、外国からやって来た人も含まれているのです。しかしユダヤ人たちはよその民族、彼らとは往来のないサマリア人はそこに含まれないと考えています。ですから当時のラビ(指導者)の間でもこの「わたしの隣人とはだれか」という問題がたびたび話し合われていました。律法の専門家はこのことを尋ねることによって、イエスにご自分の立場を明らかにさせたのです。彼はイエスに誰が彼の隣人であり、彼が隣人にどこまでの責任を負うべきか、その答えを求めたのです。するとイエスは善いサマリア人の例えを用いて答えました。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」のでした。

ここに登場する二人には憐れみの心が欠けており、被害にあった人を見ても知らんぷりをして立ち去ってしまいました。司祭とレビ人は当時のユダヤ社会では貴族階級に属し、ユダヤ教の中でも中堅の地位にあった人たちです。彼らは本来ユダヤ教の教え、レビ記19章18節にある「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えを守り、実践する立場であったはずなのですが、この助けを求める被害者を見ても、憐れみの心を持つことなく、立ち去ってしまったのです。

その後イエスは、祭司とレビ人のあと、もう一人そこを通りかかった者の話をします。それはサマリア人でした。サマリア人は、ユダヤからは自分たちとは関わりのない民族だとみなされていました。このサマリア人は被害者を見かけるとすぐに「憐みの心」が湧き、その人のそばに来ると傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。翌日宿屋の主人に銀貨を二枚渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言いました。

サマリア人がこの被害者を助けたことは、彼にとっては何の得にもならないことです。被害者のために道で立ち止まることで、彼もまた追いはぎの攻撃に遭ってしまうかもしれません。またこの被害者は知り合いではありませんから、介抱のために出したお金も戻ってこないかもしれません。それでも彼は被害者への「憐みの心」から、時間、お金、力、そして自身の身の安全まで犠牲にして行動に出たのです。

イエスはこの話を終えると、律法の専門家に「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねました。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えました。

「わたしたちの隣人」とはつまり私たちの助けを必要とし、なおかつ私達が助けることのできる人、ということです。愛があり、誰が隣人かを知っているなら、自分を必要としている人の隣人になれるのです。この善いサマリア人の行動からわたしたちクリスチャンが学ぶべきことは、他人に対して「愛」を出発点とすること、話す言葉も、行動も、愛の心から発せられること。これこそ、聖書に書かれている「隣人を自分のように愛する」ことなのです。

「隣人を自分のように愛する」ことは、本来私たちに備わっているべき人生観です。自分のもっているものを相手に分け与えることができること、みずから相手に寄せ、相手を助け、相手に一生懸命尽くす、それがイエスの認める人生観なのです。だからイエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言ったのです。

台北市三角埔長老教会の執事陳允さんは新北市中和區に住んでいます。家の近所に体の不自由なおばあさんが住んでおり、彼は毎日このおばあさんのごみ捨てを手伝っていました。おばあさんはとても感動し、しばらくたったある日彼が礼拝に行っている教会はどこかと尋ねました。彼女もその教会に行き、洗礼を受けたいというのです。陳執事が近所のおばあさんに「自分のように愛する」行動をとったことで、主イエスはすばらしい証しを見せ、主のもとに導いてくださったのです。

彰化基督教醫院の創業者蘭大衛(デイビット・ランズボロー)医師のもとに、あるとき子供を連れた父親がやってきました。その子供は皮膚が大きくはがれてしまっており、皮膚の移植が必要でしたが、その子に皮膚を提供しようという人は現れませんでした。そこで蘭医師の夫人が、自分の太ももの皮膚を五枚切り取ってその子に移植することを提案し、蘭医師はその通りにしました。これが台湾で初めての皮膚移植手術となりました。蘭医師夫人は、この皮膚移植は他人の苦痛を取り去るためのものであり、必要な人に贈る愛であるから、自分は苦痛ではない、と言いました。皮膚移植を受けたこの子供が、彼女の「隣人」だったのです。

皆さんが神の豊かなみ恵みのもと、「隣人を自分のように愛する」人生観をもって隣人を助ける者、神のため人のために働く者となられますように。
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