ボランティアさんのリレーコラム—私と台湾と玉蘭荘/勝田桂子
editer: 玉蘭莊 date: 2024-07-20 22:33
主人の仕事で五年前から台北で暮らすことになりました。主人は単身赴任をしていたシンガポールから。息子は就職をし、一人暮しを始めていたところでした。長いこと単身赴任していたので、今回は私も一緒に台湾に行くことに決めました。久しぶりの夫婦二人だけの生活が始まった訳です。
台北での生活は快適で、不自由無く暮らせていましたが、時間は沢山ありますし何か私でも出来る事は無いかと調べていたところ、日本語世代の方々が集う玉蘭荘の事を知りました。
主人の父親は湾生で、台中の豊原、そこから雲林虎尾の製糖会社の宿舎に移り住みました。私達が台北に来た後、義父と虎尾に赴きました。今では名前は変わりましたが、当時の製糖会社が残っており、住んでいた家は至る所が朽ちてはいるものの現存していました。空襲があった時は庭の防空壕に逃げた事や、この道に爆撃が堕ちて大きな穴が空いた事や、木に登って果実を採った事。懐かしそうに話す義父でした。
義祖父と義祖母に私は会った事がありませんが、時代が違うとは言え日本から台湾に移り住んだ事に何かしら縁を感じます。
夫婦と子供5人の生活。義祖父はポンカン栽培する為に新竹にも山を購入して、台湾で生涯暮らそうと考えていたそうです。終戦は義父が十歳の時。引き上げの時、日本に持ち帰られる物の数は決まっていたそうです。その中の一つにお正月に使う塗りのお屠蘇一式があり、今でも年始に使っている大切な一品です。
次女(私はおばちゃんと呼んでいました)の旦那様(おじちゃん)は台湾で日本海軍の特攻兵でした。虎尾の勝田の家に御飯を食べに出入りしていたおじちゃんは、おばちゃんを見て可愛い子が居るなと思っていたそうです。終戦となり、おじちゃんは特攻に行く事を免れ、後に2人は結婚しました。おじちゃんからもっと当時の事を聞きたかったのですが、戦争の事をあまり話したく無かったのかもしれませんね。2人の馴れ初めはよく話してくれていたのですが、それ以上を聞いた事はありませんでした。
私の母の友人にも、当時台湾で生活をしていた方がいました。その中のお一人は、総統府の官舎で生活をしていた事や、当時の写真を見せて下さいました。セピア色の写真には母親と子供が洗濯を干している姿が写っていました。いつも台北「たいぺい」を「たいほく」と言ってたのが印象的です。町の名前を言われても分からず、その頃の地図を検索して今のこの辺りなんだなぁ...とその頃の様子を思い浮かべたり、その頃の現存する写真を見たりしていました。
私の父は日本史の教師でした。そんな影響からなのか、私も歴史が好きです。こちらに来てからは歴史的建造物を見に出掛けたりスマホで写真を撮ったりする街歩きが趣味の一つです。
未だに古い建物を残し、中にはリノベーションをしてカフェや店舗に上手に使っている事に感心しています。日本家屋においては、東京や横浜でここまで当時の建物が残っているところを知りません。もちろん戦争があったのも要因ですが。
私の初台湾は高雄でした。友人のお父さんが単身赴任をしており、その家に泊まらせてもらいました。その友人が台北の私の家に泊まる事になり、これもまた繋がりを感じます。当時は日本語を話す方が今より多く、不自由無く旅をしました。今になっては高雄のどの辺に行ったのか調べたのですが、様子が変わり過ぎて知る事ができません。
台北市内も私が住んで五年経つ間に、高層ビルやマンションが瞬く間に建てられ街の移り変わりの速さを感じています。景色が変わる前に出来るだけ写真を撮りたいと出歩いています。
時代の移り変わりがあった台湾。そのせいなのでしょうか?何事においても順応性が高い事にも感心しています。その一つに日本は未だにガラケーと言われる携帯を持っている方も少なくありません。スマートフォンを使ってグループLINEをしている会員の皆さん、日本ではこうはなかなか行きません。私は無理だと拒否反応を起こす人が多いのが日本です。
話が少し反れましたが、会員の皆さんが御覧になってこられて台湾の景色はどんなでしたか?その頃どんな風に暮らされていましたか?皆さんから伺う機会があまり無いのですが、もしよろしければ当時のお話しを伺がえれば嬉しいです。
幾重もの時代を越え、沢山のご苦労もなさった事と思いますが、会員の皆さんは何時も明るく何事にも前向きになさっていて、心から素晴らしいなぁと感心しています。 午後の活動ではカラオケで声を出したり、ゲームや手作業をなさったりとパワーを感じずにはいられません。当初はボランティアとして何かお手伝いが出来たらと安易に考えていましたが、今では私自身が皆さんから教えていただく事が沢山あり、自分もこうして歳を重ねたい、そう出来ればと思う様になりました。
最近、旅行のプランの中に玉蘭荘に関心を持って来て下さる方がいらっしゃいましたが、有難く思うのと同時に、もっと多くの方に玉蘭荘を知っていただいて、台湾の美味しいものや買物だけでは無い、もっと深く台湾を知って欲しいです。もちろん在住している日本の方々にも同じ事を思っています。
玉蘭荘は今後も台湾と日本の大切な繋がりの場として永遠にこの名前は残して欲しいと思っています。
勝田家三代に渡る台湾との御縁。私も台湾での生活で見聞きした事、体験した事をこの先は孫にも話して行きたいです。
こちらに来て会員の皆さん、ボランティアの皆さん、関われていらっしゃる沢山の方々に出会えた御縁に感謝いたします。台湾で暮らすきっかけをくれた主人にも感謝します。そして皆さんの幸せをお祈り申し上げます。
台湾の生活がいつまで続くのか分かりませんが、今後ともよろしくお願いします。
台北での生活は快適で、不自由無く暮らせていましたが、時間は沢山ありますし何か私でも出来る事は無いかと調べていたところ、日本語世代の方々が集う玉蘭荘の事を知りました。
主人の父親は湾生で、台中の豊原、そこから雲林虎尾の製糖会社の宿舎に移り住みました。私達が台北に来た後、義父と虎尾に赴きました。今では名前は変わりましたが、当時の製糖会社が残っており、住んでいた家は至る所が朽ちてはいるものの現存していました。空襲があった時は庭の防空壕に逃げた事や、この道に爆撃が堕ちて大きな穴が空いた事や、木に登って果実を採った事。懐かしそうに話す義父でした。
義祖父と義祖母に私は会った事がありませんが、時代が違うとは言え日本から台湾に移り住んだ事に何かしら縁を感じます。
夫婦と子供5人の生活。義祖父はポンカン栽培する為に新竹にも山を購入して、台湾で生涯暮らそうと考えていたそうです。終戦は義父が十歳の時。引き上げの時、日本に持ち帰られる物の数は決まっていたそうです。その中の一つにお正月に使う塗りのお屠蘇一式があり、今でも年始に使っている大切な一品です。
次女(私はおばちゃんと呼んでいました)の旦那様(おじちゃん)は台湾で日本海軍の特攻兵でした。虎尾の勝田の家に御飯を食べに出入りしていたおじちゃんは、おばちゃんを見て可愛い子が居るなと思っていたそうです。終戦となり、おじちゃんは特攻に行く事を免れ、後に2人は結婚しました。おじちゃんからもっと当時の事を聞きたかったのですが、戦争の事をあまり話したく無かったのかもしれませんね。2人の馴れ初めはよく話してくれていたのですが、それ以上を聞いた事はありませんでした。
私の母の友人にも、当時台湾で生活をしていた方がいました。その中のお一人は、総統府の官舎で生活をしていた事や、当時の写真を見せて下さいました。セピア色の写真には母親と子供が洗濯を干している姿が写っていました。いつも台北「たいぺい」を「たいほく」と言ってたのが印象的です。町の名前を言われても分からず、その頃の地図を検索して今のこの辺りなんだなぁ...とその頃の様子を思い浮かべたり、その頃の現存する写真を見たりしていました。
私の父は日本史の教師でした。そんな影響からなのか、私も歴史が好きです。こちらに来てからは歴史的建造物を見に出掛けたりスマホで写真を撮ったりする街歩きが趣味の一つです。
未だに古い建物を残し、中にはリノベーションをしてカフェや店舗に上手に使っている事に感心しています。日本家屋においては、東京や横浜でここまで当時の建物が残っているところを知りません。もちろん戦争があったのも要因ですが。
私の初台湾は高雄でした。友人のお父さんが単身赴任をしており、その家に泊まらせてもらいました。その友人が台北の私の家に泊まる事になり、これもまた繋がりを感じます。当時は日本語を話す方が今より多く、不自由無く旅をしました。今になっては高雄のどの辺に行ったのか調べたのですが、様子が変わり過ぎて知る事ができません。
台北市内も私が住んで五年経つ間に、高層ビルやマンションが瞬く間に建てられ街の移り変わりの速さを感じています。景色が変わる前に出来るだけ写真を撮りたいと出歩いています。
時代の移り変わりがあった台湾。そのせいなのでしょうか?何事においても順応性が高い事にも感心しています。その一つに日本は未だにガラケーと言われる携帯を持っている方も少なくありません。スマートフォンを使ってグループLINEをしている会員の皆さん、日本ではこうはなかなか行きません。私は無理だと拒否反応を起こす人が多いのが日本です。
話が少し反れましたが、会員の皆さんが御覧になってこられて台湾の景色はどんなでしたか?その頃どんな風に暮らされていましたか?皆さんから伺う機会があまり無いのですが、もしよろしければ当時のお話しを伺がえれば嬉しいです。
幾重もの時代を越え、沢山のご苦労もなさった事と思いますが、会員の皆さんは何時も明るく何事にも前向きになさっていて、心から素晴らしいなぁと感心しています。 午後の活動ではカラオケで声を出したり、ゲームや手作業をなさったりとパワーを感じずにはいられません。当初はボランティアとして何かお手伝いが出来たらと安易に考えていましたが、今では私自身が皆さんから教えていただく事が沢山あり、自分もこうして歳を重ねたい、そう出来ればと思う様になりました。
最近、旅行のプランの中に玉蘭荘に関心を持って来て下さる方がいらっしゃいましたが、有難く思うのと同時に、もっと多くの方に玉蘭荘を知っていただいて、台湾の美味しいものや買物だけでは無い、もっと深く台湾を知って欲しいです。もちろん在住している日本の方々にも同じ事を思っています。
玉蘭荘は今後も台湾と日本の大切な繋がりの場として永遠にこの名前は残して欲しいと思っています。
勝田家三代に渡る台湾との御縁。私も台湾での生活で見聞きした事、体験した事をこの先は孫にも話して行きたいです。
こちらに来て会員の皆さん、ボランティアの皆さん、関われていらっしゃる沢山の方々に出会えた御縁に感謝いたします。台湾で暮らすきっかけをくれた主人にも感謝します。そして皆さんの幸せをお祈り申し上げます。
台湾の生活がいつまで続くのか分かりませんが、今後ともよろしくお願いします。
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