種蒔く人/伊藤初 牧師
editer: 玉蘭莊 date: 2024-07-20 22:36
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。(ルカによる福音書八章五節)
イエス様は種まきの譬えの中でまず、実を結ばなかった三つの土地の話をしています。道端とは、み言葉を聞いても受け入れないかたくなな心を表しています。そういう心では、み言葉は根を張らないので、すぐに悪魔に持ち去られてしまいます。石地とは、み言葉を聞いてもうまくいかないことがあるとすぐに諦めてしまうことです。いばらとはこの世の誘惑に心を奪われ、み言葉が実を結ばない人のことを言っています。最後に良い地に落ちた種は、100倍の実を結びました。
私たちは、この譬えを読む時、「私は良い地だ」と自信をもって言うことができるでしょうか?むしろ「自分は道端の心だ」、「石地の心だ」、「いばらの心だ」、と感じる人の方が多いかもしれません。
けれども、イエス様は弟子たちに「あなたがたは100倍の実をならせる良い地だ」と言ったのでした。どうしてそう言われたのでしょうか?
実は、ここで言われている種というのは、私たち一人一人のことだと言われています。イエス様は種は神様の言葉だとこの譬えを説明しています。その意味は、私たちがみ言葉を聞いて心に受け入れるとき、私たち自身が種となって、この世界にまかれていくということです。
イエス様が願っていることは、私たちという土地を利用して多くの収穫を得ようとしているのではなく、み言葉を聞いた私たちが、それぞれの場所で神様の恵みを通して、沢山の実を結んで行くということです。
私たちがもし種だとしたら、私たちが蒔かれる四つの土地というのはどういう意味でしょうか?私たちは、道端のような所にまかれるかもしれないし、石地にまかれるかもしれない、いばらの中にまかれるかもしれません。実を結ばせるかどうかはすべて環境によるということでしょうか?もしくは、譬え、厳しい環境の中にまかれても、自分の力で何とかしてそこを良い地に変えて行けという意味でしょうか?
実はこの譬えには、一人重要な人が出てきます。それは種を蒔く人です。種を蒔く人は何をするでしょうか?当たり前ですが、種蒔く人は収穫を得るために種蒔きをします。ですから、蒔くだけ蒔いてそれで終わりということはありません。その後、地を耕し、水をやり、実を結ぶまで気を配り続けます。
種蒔く人なしに種は実を結ばせることは出来ません。ですから良い地とはまさに種蒔く人によって整えられた地だと言えます。
この種蒔く人とは誰でしょうか?それはまさにイエス様です。私たちはいろいろな地にまかれます。難しい問題にぶつかって、悩んだり、疲れ果てたりすることがあるかもしれません。置かれている環境に不満をもつこともあるかもしれません。けれども、イエス様はその種である私たち一人一人を決して見捨てることなく、実を結ばせようと、絶えず助け導いて下さっています。そして私たちを通して、周りの多くの人に祝福を与えて行くことを願っておられます。
私は台湾に来る前、日本の地方の教会で牧師をしていました。買い物に行くとだいたい毎回知り合いに合い、住んでいる人ほとんどみんな知り合いか親戚というような地域でした。
またとても仏教や昔ながらの習慣の根強い地域でもあり、私たちの教会が教会学校をやっているように、近くのお寺でも子どもたちを集めての活動を行っていました。教会学校に地域の子どもたちが来ても、教会学校が終わった後、お寺に行くような子どもたちもいました。
ですから、私が教会に来たばかりの時は、ここで宣教することは簡単ではないと思いました。それでも、教会の方々と一緒に種をまき続けました。教会学校で畑を作って、子どもたちと一緒に収穫をしたり、キャンプをしたり、日本の縁日のように教会の庭に屋台をたくさん出して子どもたちやその家族を招いたりしました。そうしているうちに、教会に来る子どもたちやその家族の人が増えてきました。ある時には、100名を超える子どもたちが教会に来たころもありました。
人口の多くない地域でどうしてそんなにたくさんの子どもたちが来たのでしょうか?それには一つ理由がありました。その教会はその地で70年間教会を続けてきました。その間、教会学校に、たくさんの地域の子どもたちが来ました。大人になって教会から離れた人もいましたが、そういう人たちが父親、母親になって、また自分の子どもを教会学校に送り出してくれるようになりました。ですから、地域の多くの人が教会のことをよく知ってくれており、教会と地域とに非常に良い関係ができていました。
今、イエス様は私たち一人一人がそのみ言葉を信じ受け入れ、蒔かれた地で多くの実を結び、そして周りの人たちの祝福となって行くことを願っています。私たちは時に蒔かれたその場所で実を結ぶことが困難に感じることもあるかもしれません。けれども、私たちを慰め、励まし、その地を良い地へと変えることのできるお方です。
イエス様は種まきの譬えの中でまず、実を結ばなかった三つの土地の話をしています。道端とは、み言葉を聞いても受け入れないかたくなな心を表しています。そういう心では、み言葉は根を張らないので、すぐに悪魔に持ち去られてしまいます。石地とは、み言葉を聞いてもうまくいかないことがあるとすぐに諦めてしまうことです。いばらとはこの世の誘惑に心を奪われ、み言葉が実を結ばない人のことを言っています。最後に良い地に落ちた種は、100倍の実を結びました。
私たちは、この譬えを読む時、「私は良い地だ」と自信をもって言うことができるでしょうか?むしろ「自分は道端の心だ」、「石地の心だ」、「いばらの心だ」、と感じる人の方が多いかもしれません。
けれども、イエス様は弟子たちに「あなたがたは100倍の実をならせる良い地だ」と言ったのでした。どうしてそう言われたのでしょうか?
実は、ここで言われている種というのは、私たち一人一人のことだと言われています。イエス様は種は神様の言葉だとこの譬えを説明しています。その意味は、私たちがみ言葉を聞いて心に受け入れるとき、私たち自身が種となって、この世界にまかれていくということです。
イエス様が願っていることは、私たちという土地を利用して多くの収穫を得ようとしているのではなく、み言葉を聞いた私たちが、それぞれの場所で神様の恵みを通して、沢山の実を結んで行くということです。
私たちがもし種だとしたら、私たちが蒔かれる四つの土地というのはどういう意味でしょうか?私たちは、道端のような所にまかれるかもしれないし、石地にまかれるかもしれない、いばらの中にまかれるかもしれません。実を結ばせるかどうかはすべて環境によるということでしょうか?もしくは、譬え、厳しい環境の中にまかれても、自分の力で何とかしてそこを良い地に変えて行けという意味でしょうか?
実はこの譬えには、一人重要な人が出てきます。それは種を蒔く人です。種を蒔く人は何をするでしょうか?当たり前ですが、種蒔く人は収穫を得るために種蒔きをします。ですから、蒔くだけ蒔いてそれで終わりということはありません。その後、地を耕し、水をやり、実を結ぶまで気を配り続けます。
種蒔く人なしに種は実を結ばせることは出来ません。ですから良い地とはまさに種蒔く人によって整えられた地だと言えます。
この種蒔く人とは誰でしょうか?それはまさにイエス様です。私たちはいろいろな地にまかれます。難しい問題にぶつかって、悩んだり、疲れ果てたりすることがあるかもしれません。置かれている環境に不満をもつこともあるかもしれません。けれども、イエス様はその種である私たち一人一人を決して見捨てることなく、実を結ばせようと、絶えず助け導いて下さっています。そして私たちを通して、周りの多くの人に祝福を与えて行くことを願っておられます。
私は台湾に来る前、日本の地方の教会で牧師をしていました。買い物に行くとだいたい毎回知り合いに合い、住んでいる人ほとんどみんな知り合いか親戚というような地域でした。
またとても仏教や昔ながらの習慣の根強い地域でもあり、私たちの教会が教会学校をやっているように、近くのお寺でも子どもたちを集めての活動を行っていました。教会学校に地域の子どもたちが来ても、教会学校が終わった後、お寺に行くような子どもたちもいました。
ですから、私が教会に来たばかりの時は、ここで宣教することは簡単ではないと思いました。それでも、教会の方々と一緒に種をまき続けました。教会学校で畑を作って、子どもたちと一緒に収穫をしたり、キャンプをしたり、日本の縁日のように教会の庭に屋台をたくさん出して子どもたちやその家族を招いたりしました。そうしているうちに、教会に来る子どもたちやその家族の人が増えてきました。ある時には、100名を超える子どもたちが教会に来たころもありました。
人口の多くない地域でどうしてそんなにたくさんの子どもたちが来たのでしょうか?それには一つ理由がありました。その教会はその地で70年間教会を続けてきました。その間、教会学校に、たくさんの地域の子どもたちが来ました。大人になって教会から離れた人もいましたが、そういう人たちが父親、母親になって、また自分の子どもを教会学校に送り出してくれるようになりました。ですから、地域の多くの人が教会のことをよく知ってくれており、教会と地域とに非常に良い関係ができていました。
今、イエス様は私たち一人一人がそのみ言葉を信じ受け入れ、蒔かれた地で多くの実を結び、そして周りの人たちの祝福となって行くことを願っています。私たちは時に蒔かれたその場所で実を結ぶことが困難に感じることもあるかもしれません。けれども、私たちを慰め、励まし、その地を良い地へと変えることのできるお方です。
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