「神の恵みの前に立つ」印主烈牧師 --118号

玉蘭荘に招かれて、今日此処で皆さんとお目にかかれることを感謝いたします。私たちは心より台湾を愛しています。そして、私たちは台湾の人々がイエス・キリストの福音を聞き、信じることを願っています。これは世の中で何よりも大切な事だと思います。


今日、私はイエス・キリストの福音についてもっと多く皆さんと共に分かち合いたいと思います。

まず、新約聖書にあるパウロのローマの信徒への手紙第五章1-5節を読みましょう。そして、特に第2節に焦点を当てて考えて見ましょう。

いま、私はあなた方から一人のボランティアを貸して 戴きたいと思います。

こちらに一つのプレゼントがあります。これを開けてください。

では、わたしに返していただけるプレゼントはありますか?貴方も私にプレゼントのお返しをくださるべきではないですか?もし、あなたがわたしになにかを下さらなかったら、今差し上げたプレゼントを私に返してください。貴方はそれを受け取ることはできません。

今のこのことは、「恵み」と言う一つの課題を提出しています。

わたしの次女の名前はチャリスと申します。チャリスはギリシャ語で新約聖書の中で示されている言葉で「恵み」と言う意味です。


「チャリス」という言葉には「恵み」という言葉の外に「ただで貰うプレゼント」と言う意味も含まれています。そのプレゼントを私たちには貰う資格が無いのです。しかし、それは一旦貰えば将来返さなければならないという条件はついておりません。

残念ながら、多くの人は神の「恵み」や「神のギフト」を頂けば、それには将来お返しする義務があると思っています。

このような考えは、その人にとって洗礼を受けることを先送りする原因となるのです。もし私が教会の礼拝に参加したら、私は何をすれば良いのでしょうか?どういうことを要求されるのでしょうか?どんな義務を果たさなければならないのでしょうか?或いはどのくらいの献金が必要なのでしょうか?等と思い悩むのです。

多くの台湾の人たちは聖書を教わるとき、なお、その教えに対して何か恩返しをしなければならないという伝統文化の観念が伴うのです。


この人たちは、こう言います「イエスさまはこんなに貴方に尽くして下さいました。彼はさらに私達の為に十字架に掛けられ亡くなられたのです。貴方は今こそイエス様に恩返ししなければなりません」しかし、その言い方は聞いた人に罪悪感を感じさせます。そして、その人は、一枚の生活の規則を載せたリストを貴方にさし出します。


問題はもし貴方がその人たちの言う事、つまり、ギフトはただではないことを信じたら、貴方は神様に必ずお返しをしなければならなくなり、奉仕は喜んでやるのではなく、義務感のあるものになってしまいます。しかし聖書はそう言う風に言ってはいません。

たとえば、お金のことはいつでも論争を引き起こす問題です。人びとはこのような理由からもキリスト教を好まなくなります。つまり、教会はいつも私たちにお金を請求しているように感じてしまいます。

聖書には献金と言うことをどう書いていますか?コリントの信徒への手紙2 九章7節「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」


ご覧の通り、惜しむ心からではなく、また、強いられてでもなく、義務からしたものでもないということです。

神様は気持ちよく献金をする人を好まれます。神様は自分の自由な意志で行う人と共におられます。例えば、貴方がそごうデパートに立ち寄り、ある品物を見て、これをプレゼントとして友達に上げたら、その友達はすごく喜ぶだろうと思って、その品物を買います。

すなわち、貴方がその品物を買うとき、貴方は、「こんなに高いものを買うからには相手がありがたく思わないとつまらないな!そして、その人がお返し下さる品物は、もっと高いもので無いと承知しないぞ!」とは思わないでしょう!


皆さんは、この二つの考え方はだいぶ違うことを理解できると思います。

神様は、私たちとの関係の基は、あくまでも愛であって欲しいと願っておられます。イエス様はヨハネによる福音書十四章23節で言われました:「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。それは」決して義務感ではなく、あなたがイエスを愛し、その愛の元に平伏して、行動するということなのです。

神様は自分の一人子をお遣わしになり、私たちを救うため私たちの本質を換えました、決して私たちをだましたのではありません。「貴方はイエス様を自ら受け入れ、その賜物を受け入れ、今、私は貴方を捕らえた、だからあなたにはすでに義務がある!」等とは考えないでください。こんな説教を聴かないでください。このような説教をする伝道者の話を聞かないでください。

今日のメッセージは神の恵みに関するとても美しいメッセージです。それは、条件の伴わないギフトで、私たちの行ないに基づくものではありません。

ローマの信徒への手紙五章2節を見ましょう。


1.信仰によって立つ

私が幼いとき、クリスマスの休みにおじいさんとおばあさんの所に行きました。私たちは二階で寝るので、大人たちより早く二階へ上がりました。大人たちは夜遅く迄お話をしていましたので、私はいつもこっそり階段の上でそのお話を聞きました。

皆さん、人からのけ者にされる感じを経験したことがあるでしょう。

人からのけ者にされることは重大な問題です。天国から締め出されることは永遠の生命や死に関わることです。私達の罪は神様によって取り除かれるべきです。神様は、貴方の罪が貴方を暗黒の中に残し、そして貴方が貴方の罪のために天国から締め出され、復活し永遠の命を得ることから外されることを、知って欲しいのです。

あなたは神様に会える祝宴から外されてしまいます。それは、貴方の罪が適切に処理されなかったためです。

神様は、旧約聖書の聖所を通して、人が神様から締め出されたことをはっきり描いています。

台湾のお寺は違います。その中に偶像があれば、人は見ることができます。ただ、僅かな儀式と、頭を下げて、焼香すれば十分です。エルサレムの神殿は、近づけないことを強調しています。それは、神様は神聖であり、人間は汚れているということで、近づく資格はありません。

病気の場合は近づいてはいけません。

外国人は中に入らず外に留まりなさい。

女性は中に近寄ることはできません。

ユダヤ人の成人男性は、少しだけ中に入ることができます。

長老か聖職者ならば、もう少し中に入ることができます。

しかし、不思議な事に、一番奥の方は、誰も入れません。そこは神様が言われたとおり、神のご臨在する所です。そこにはカーテンが垂れさがっていて中は見えません。

ただ、年に一度,祭司がきて、彼自身のために血の儀式の道具を清め、人々のための清めを行った後、許される所まで中に入る。それだけなのです。それも年一度だけです。

そして、その祭司はロープを体に巻き,最も神聖な場所に入ったとしても、面目を汚す事があれば、神様の雷に打たれて死に、その死体はそこから引き出されてしまうのです

なぜ私たちはそれっきりそんな聖所で拝むことがないのでしょうか?イエス様が十字架で死んだとき、彼は言われました、「すべてが終わった。」そして、聖書の言う通り、聖所の幕が真中から裂けたのです。

キリストの生涯とキリストの犠牲は神の律法を完成しました。だから、私たちの罪はそれによって許されました。イエス様の血が私たちの罪を清め、私たちは今神様に近寄ることができます。それは、その祭司が年一度血で祭品を清めて、聖所の最も奥の神聖な所に入られることより良いことです。

新約聖書のヘブライ人への手紙ではイエス様が今神様の玉座の前で、私たちのために、おとりなしくださったことにより、私たちが神様に近寄れることを確認できます。ですから、私たちのお祈りで「イエス様のみ名によって」と祈っております。

皆様にお尋ねします。貴方は神から見放された、或いは愛されなかった、あるいは望まれていなかったような感じを経験したことがありますか?

ローマの信徒への手紙にある、神様のみ言葉の恵みを聴きましょう。

只今、私たちは信仰によって神の恵みに近寄る事ができます


2.神の恵みに近寄る

イエスを通して恵みに近寄る。

・胸を張って立つ

何も隠すことがない。

何もゴキブリのように影にこそこそ逃げることはない。

その代わり - 自由の中に立つ。

・転ばず、恐れず、(神に)近寄る

ある岩礁の上に立つようではなくて - すこし離れた

ところに、それでも落ちる恐れがある、

その代わり、神の恵みは見渡す限り広く平らな草

原に立つことです。

=私たちの子供は広い草原の公園に行った時=

あなたは広く平らな草原から落ちることはありません。貴方は転ぶ可能性はあります、しかし転んで落ちることはありません。貴方はそこで走り回っても果てには届きません。貴方は気をつけながら歩むこともできます。貴方は私の子供のように広く平らな広場に着くと踊ることもできます。

貴方は揺るぐことはありません。命に関わる地震があっても、あなたは決して揺るがないでしょう。


(陳旭星常務理事訳)

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