モーセの歌(七月十一日玉蘭荘の礼拝)呉淑金牧師--119号

呉淑金牧師

モーセはイスラエル民族を四十年も導き、その間彼は神と交わり、神の命令に従い、多くの仕事を果たしました。
最後に、神様はモーゼに一遍の歌を書かせました。(申命記三十一:十九) そして、その歌をイスラエル民族に教え、神の真理の証しとして、憂き目に会った時に、慰めや励ましの役目を果しました。


順調で嬉しい時には、この歌を心から賛美と感謝で歌い捧げます。戒めは時には忘れる事があっても、歌の言葉はいつも忘れないように唱える事、それゆえ、モーゼは神に言われた通り、この歌を作り、イスラエル民族に教えました。
とりわけ、聖書の中の詩篇は、多くの信者がそれによって、神を賛美し(褒め)、ただ神に祈り、自分を慰め、励まします。
詩篇は人のさまざまな思想、感情、意志などを表わします。人の心の中に潜んでいる感情、 最も真実な抑制が、詩篇によって表わされています。


詩篇のほかに、歴代の教会では、御霊に感動された人がいろいろな歌を書き、それは教会の信者にとって、もっとも貴重な財産でもあります。


教会の兄弟姉妹が、家でまたは教会で、もし常に賛美歌を歌っていれば、心はひらかれ、御霊に溢れながら、霊的に助けられ、教会は大いに復興されます。


ではご一緒に、モーゼの作られた歌の内容を見てみましょう。この歌の内容はイスラエル民族が主を記念するよう励ましました。神の大いなるみ恵みは何でしょうか。


(1)高価で買われた(申命記三十二:六(口語訳))
「…主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。」
慈しみの表現はただ口で言うのではなく、実際的に行動で表すことです。真実な慈しみ(慈愛)は愛の相手のために犠牲を“払う事が出来るか、払うことが出来ないか”によって決められるわけです。
神様の慈しみは、私たちを罪から買われたのです。


もとより私達は罪の中に死ななければなりませんでした。この世でも来世でも希望がありませんでした。それにも拘らず、神さまは私達を愛するため、その豊かな慈しみによって、ひとり子イエスキリストをこの世に遣わされ、私たちのために死に渡され、私たちを贖われ、死から永遠の生命に入れられ、闇の中から光の中に入れられました。このような神の愛は、この世の中の何にも比べることが出来ません。


 昔、ギリシャに一人の金持ちのお爺さんが一人息子と暮らしていました。この金持ちのお爺さんは、愛する息子に希望する物は何でも与えました。とはいえ、その一人息子は不作法で、父の教えに背き、家出をして、父から遠く離れた所で彷徨い、暮らしが出来ないほどの負債を抱え、ついに奴隷として自身を売られてしまいました。この金持ちのお爺さんは、息子をいつも絶えず思って、大金を携え、家の宝物を懐に収め、息子を探しに行きました。そして、親子の再会の日が来ることを望みました。そして遂に、或る村で息子を探し当て、その子のむなしい姿を見て大変悲しみました。息子の体は傷だらけで、人間らしく見えませんでした。すぐにその子をつれて帰ろうと思いましたが、その子は莫大な負債を負っていました。仕方なく貸主の高価な請求に、大金と懐の全ての宝物を支払って、息子を贖いました(買取ました)。

                                   
同様に、神様は私たちを愛し、そのひとり子をこの世に遣わされ、この世の苦しみを受けられ、十字架で血を流され、私たちを贖われるために生命を犠牲にされました。


このような高き、深き神の慈しみに対して、私達は神様に感謝と賛美を捧げない理由があるでしょうか?
 

(2)綿密な守り(申命記三十二:十(口語訳))              
「主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。」                  
心理学を習った人は、私達の奇妙な目の構造は、神様が創造した偉大な遂行に感服せざるをえません。私達の目の瞳は、外の皮に保護され、一分間におよそ十回瞬きします。その機能は瞳を保護して、埃や空気中の黴菌に襲われない様に防ぎます。同時に目の疲れを防ぐためでもあります。


神様は瞳を護るごとく、その子どもたちを見守っております。私達は神に感謝しましょう。
これから一つのたとえをお話します。              あるエルサレムの宣教師が、一度アフリカのアピシニアに
宣教で旅行をしている時に、全ての事が自分の考え通りに行かず、自分の頼りにしている神様が、すでに彼から離れたように思いました。そして、彼は山の洞窟に入り、真剣に神に祈りました。
彼が洞窟に入った時、洞窟は真っ暗でした。彼が暫く祈った後で、目が闇の中に慣れて来て、目の前のものも見えるようになりました。


彼の目の前に、一匹の雌虎とその子虎が現れました。子虎と一緒にいるときは、その雌虎が一番恐ろしいのです。神さまは雌虎の口を塞がれ、宣教師を無事に見守りました。まさにダニエルが獅子の洞窟で獅子の口を塞がれて、無事に見守られたのと同様でした。宣教師は洞窟から出た時、何の傷もなく、彼は神様が彼を離れ放棄したのだと、思っていたにも関わらず、神は正に彼を見守り、護っていて下さいました。
 今日神様は同じく私達の目を開けてくださり、私達は必ず神様が常に同行していてくださることを悟ります。どんなに私達の周りに危険や災害があっても、神様は闇の中で私達を無事に導いて下さいます。
 ヘブル人への手紙十三章五節(口語訳)にパウロはこう述べています:「主は『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。』と言われた。」だから、私達は常に神に感謝し、神を褒め称えましょう。   
 

(3)規則と教えを施す(申命記三十二:十一(口語訳))
「わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、」
或るエッセイの中にこういう状況が描かれています。一羽の雌の鷹が雛を翼の上に背負って、高い空に舞い上がり、その時、雌鷹が雛を翼の上から落としました。雛は驚きながら自分の翼を一生懸命振って、空で飛ぶ訓練を続けました。雛が力を失って空から地面に落ちて来ると、雌鷹は大きい二つの翼を広げて、落ちて来た雛を翼で受け止め、自分の背中の上に護り入れます.
また、雛が徐々に大きくなって、羽が豊かに伸びて、空を飛ぶ訓練をしなければならない時、たびたび気楽な生活に迷い、空を飛ぶ訓練を怠ります。この時、雌の鷹はその巣をかき動かして、雛の不安を募らせます。
神様は私達にも同じ事をします。私達の霊魂の命を培うため、たびたび私達の巣をかき動かし、私達をチャレンジさせます。その最後の目的は私達自身が良くなるためなのです。


詩篇一一九編七十一節(口語訳)にこう書かれています:「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことが出来ました。」
それ故に私達は神様が施された規律と教えに感謝し、神の御名を褒め称えましょう。
皆さん、このモーゼの作られた歌から、神様は慈しみであることが分かります。願わくは天のお父様の愛が豊かにそなえられ、私たち一人ひとりに賜り、まさに神のみ恵みと慈しみが私たちの一生を恵まれ、また、私たちが感謝の心を持って、賛美の歌を歌い、神のみ名を褒め称えることができますように。
一緒にお祈りしましょう。  

(翻訳:陳旭星長老)

評論: 0 | 引用: 0 | 閱讀: 2994