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「お義父さん、お義母さん、お元気ですか?」

私が台湾へ来て早いものでもう二十年近くの年月が経とうとしています。
二〇〇一年秋に語学留学生として台湾を訪れ、二〇〇二年に台湾人の主人と結婚しました。結婚当時の私は中国語もあまり話すことができず、慣れない異国での生活に楽しさもありましたが、行き詰まり、悩むことも多かったように思います。
そんな時、折に触れて私を助けてくれたのが、主人の父でした。義理の父は、一九二九年生まれの日本語教育を受けた世代で、日本語がとても堪能でした。

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義工專欄-向玉蘭莊獻上感謝/長澤京子

「公公、婆婆、你們都好嗎?」

時間飛快,我來到台灣已經將近二十個年頭了。

二〇〇〇年秋天,我以語言留學生的身分造訪台灣,二〇〇二年跟台灣人的丈夫結婚。結婚當時,我還不太會說中文。在人生地不熟的異國生活,雖然有樂趣,但也有碰到瓶頸的時候,煩惱也不少。

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使徒言行録二十章三十五節

知らない人を助ける(Helping A Strenger Ranking)ランキングで、日本は百四十四ヵ国中百四十二位で、寄付のランキング(World Giving Index Ranking)でも、百十四位でした。ちなみに「人を助ける」で第一位は、リビアで人口の八十三%が参与していて、イラク、クエートと続いています。寄付については、第一位はミャンマーで人口の八十八%が捧げています。次にアメリカ、オーストラリアと続きます。東日本大震災のとき台湾の人たちは、一位のアメリカとほぼ同額の二百億円以上もの義援金を集めたことはよく知られているとおりですが、大卒の収入が日本人の三分の一にもならない人たちからの義援金だったとはあまり知られていないでしょう。なぜ、台湾人は二百億円以上もの義援金を送ってくれたのでしょうか?

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一九四五年三月、日本統治下の台湾が米軍の空爆を浴びている最中に、私は疎開先(台湾、台南県)で、生まれました。父添水は二十四歳の時に無教会の信仰書に接して以来、生涯信仰を全うしました。母赤羽千代は明治四十二年(西暦一九〇九年)長野県生まれ、救世軍で入信、奉天での救世軍の婦人伝道を目的とした教習所での和裁教師として満州へ赴任、昭和十六年父との縁談で東京へ戻りましたが、母方の親戚は父の健康不振を理由に多数が反対。母は徹夜の祈りの内にて、病身の父に仕える事を自分の使命と自覚し、翌年無教会の政池仁先生の司式によって先生の杉並天沼の御自宅で、結婚式を挙げました。昭和十八年に父と渡台、当時日台航路は既に米軍の潜水艦に脅かされており、両親より一便遅れて帰台された郭維租先生が乗船した『高千穂丸』は基隆の沖で撃沈されました。一九四五年八月に終戦、十月に中国本土からの軍隊が台湾を接収、翌々年の一九四七年に『二二八事件』が勃発、以来台湾は苦難の五十年を歩んで来ました。

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言われるままに迎えに来た車の窓から扇子を投げ、言われるままに夫となる人の実家玄関で七輪を跨ぎ、言われるままに赤い仏壇に向かって何度もお辞儀をし、言われるままに義両親の前で湯圓を食べた...。あの結婚式の日から、あっという間に十四年が経とうとしている。

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私が小学校を卒業する時、恩師が「一生勉強」と卒業アルバムに寄せ書きをしてくれました。その時の私は「一生勉強!?何と恐ろしい事だ!!」と感じた事を今でも鮮明に覚えています。

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施比受更為有福/理事長 都丸 正夫

使徒行傳二十章三十五節

在「幫助陌生人排行榜(Helping A Strenger Ranking)」中,日本在一百四十四個國家中排行第一百四十二名。而在捐款的排行榜(World Giving Index Ranking)中,日本也只排名第一百一十四。順便一提,「助人排行榜」的第一名是利比亞,有八十三%的人口都參與其中,接下來依次是伊拉克、科威特。至於捐款,第一名是緬甸,八十八%的人口都會捐款。接著依次是美國、澳洲。就如大家都知道的,在東日本大地震的時候,台灣的民眾捐了超過二百億日圓的震災捐款,跟第一名的美國幾乎是同等的金額。但是,台灣的薪資,大學生剛畢業的收入,還不到日本人的三分之一,這件事卻鮮少有人知道吧。為什麼台灣人會願意捐出超過二百億日圓的震災捐款呢?

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我的重生的開始/林良信長老

林良信長老 二〇〇年十二月十一日 講於中壢台灣基督長老教會       

 

瑞士的神學家Emil.Burunner嚐說:『人能夠相信耶穌是救主是奇蹟。』,奇蹟也發生在我的身上,改變了我的生命。今天,要藉著我平凡的人生腳踪,與大家分享這一樁奇蹟。

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